【一杯のかけそば】一言の言葉が教えてくれる元気と勇気と生き方

【一杯のかけそば】すべての方が共感できる思考法

「一杯のかけそば」という有名なお話があります。

ご存知の方もたくさんおられるかと思われますし、ネット上では作り話とも実話とも言われるくらい有名な話ですが、作り話か実話かはどうでもいいことでしょう。

それよりも、このお話を通して、私たちの心が揺さぶられたという事実が大切であります。

僕自身、このお話を文章で拝見した時に、言葉に込められている気持ちは伝わるということを強く感じました。

「北海亭」という蕎麦屋がありました。

例年、大晦日の北海亭はてんてこ舞いの忙しさです。

朝から晩までお客様が途切れることはないのですが、夜十時を過ぎた頃には、新しいお客様も入らなくなり、お店もようやく落ち着いてきました。

最後のお客様が帰ったので閉店の準備をしていると、入口が静かに開いて、季節外れのハーフコートを着た女性が2人の子どもを連れて入ってきました。

女将「いらっしゃいませ!」

女性「あの、かけ蕎麦一人前ですけど、お願いできるでしょうか?」

そう、不安そうに言いますと、女将は笑顔で、

女将「大丈夫ですよ。どうぞ。」

女将は、3人をストーブに一番近い2番テーブルに案内すると、大きな声で主人に言いました。

女将「かけ一丁!」

すると夫は、3人をチラッと見て「あいよ、かけ一丁!」と答えました。

主人は、こっそり生そばひと玉半を鍋に入れ、茹で上がったひと玉半をどんぶりに入れました。

顔を寄せ合って一杯のかけそばを食べながら「おいしいね」って声を掛け合っている三人の話し声がかすかに聞こえてきました。

3人は食べ終わると「美味しかったです、ごちそうさま」と150円を払い、お辞儀をして帰って行きました。

「ありがとうございました。よいお年を!」

店主と女将は、いつも通りに声を合わせて言いました。

翌年、忙しい大晦日がやってきました。

10時を過ぎ、閉店の準備をしていると、ハーフコートを着た女性が2人の子どもを連れて入ってきました。

その時に女将は、女性のハーフコートを見て、去年の最後の客だったことを思い出しました。

女性「あの、かけ蕎麦一人前ですけど、お願いできるでしょうか?」

女将「大丈夫ですよ。どうぞこちらへ。」

女将は、去年3人が座った2番テーブルに案内して、大きな声で主人に言いました

女将「かけ一丁!」

主人「あいよ、かけ一丁!」

そして女将は主人の方に行って「ねえ、お前さん、サービスして3人前出してやらない?」と言うと、主人は「駄目だよ。そんなことしたら、かえって気を遣わせるじゃないか。」と返しながらも1玉半のかけそばを茹でている主人を見て女将は、「お前さんもいいとこあるね。」と微笑みました。

かけ蕎麦を食べながら話している3人の会話が聞こえてきました。

「おいしいよ」
「お母さん、また北海亭でおそば食べられたね」
「来年も食べられるといいわね」

3人は食べ終わると、丁寧にお礼を言って150円払って帰って行きました。

主人と女将は、その日何度も繰り返した同じ言葉を大きな声で言いました。

「ありがとうございました。よいお年を!」

翌年も大繁盛の大晦日がやってきました。

九時半を過ぎると主人と女将は口数が少なくなり、そわそわし始めました。

10時を過ぎると壁にかかったお品書きを一枚一枚ひっくり返しました。

かけそばは値上げして200円になっていたのですが、ひっくり返すと150円に変わりました。

二番テーブルには、すでに「予約席」の札が置いてあります。

十時半になると、母親と二人の息子が入って来ました。

女性「あの、かけそば二人前ですが、お願いできるでしょうか?」

女将「あっ、大丈夫ですよ。どうぞこちらへ。」

女将は二番テーブルに案内すると、さりげなく「予約席」の札をはずしました。

そして大きな声で主人に言いました。

女将「かけ二丁!」

主人「あいよ、かけ二丁!」

鍋に生そば三玉が入りました。

かけ蕎麦二杯を囲んで、楽しそうな笑い声が聞こえてきました。

女将は主人と目を合わしてニコッとしました。主人は静かに頷きました。

厨房まで、3人の会話が聞こえてきました。

女性「あのね、私、二人にお礼が言いたいの。」

息子「・・・お礼?・・・何のこと?」

女性「実はね、死んだお父さんが起こした交通事故で八人もの人が怪我したでしょう。・・・保険だけでは足りなくて、お母さんは毎月五万円ずつ返していたの。」

息子「知ってるよ。」

主人と女将は、身動きもせずにじっと聴いていました。

女性「そのお金なんだけど、今日全部払い終えたの。」

息子「わー、本当?お母さん。」

女性「本当よ。淳は毎日買い物をして、夕ご飯を作ってくれてたわね。お兄ちゃんは朝刊と夕刊の新聞配達をしてくれてた。二人のおかげで、お母さんは何の心配もなく働くことができたのよ。」

女性「ありがとう、ありがとね。本当に!」

その後に、息子さんの、お兄さんの方がお話を始めました。

兄「あのね、僕達、お母さんに秘密にしておいたことがあるんだ。
淳の担任の先生からのお知らせ、覚えてる?11月の日曜日の授業参観の通知それと、もう一通お母さん宛の手紙を預かってきたんだ。
その手紙には、淳の作文が、北海道代表として全国作文コンクールに入選したこと、参観日にみんなの前で淳に、その作文を読んでもらうことが書いてあったんだ。淳は、お母さんにわかると仕事を休むだろうと思って手紙を隠したんだけど、淳の友達が僕に話してくれたから、僕がお母さんの代わりに授業参観に行ってきたの。

先生は、『大きくなったらどんな仕事をしたいか』という作文を、クラスのみんなに書かせたんだけど、淳の作文の題は『一杯のかけ蕎麦』。
僕は恥ずかしいと思ったけど、淳はお父さんが事故で死んだことや借金が一杯あること、お母さんが朝から晩まで働いていることを全部読み上げたよ。
それから、大晦日の夜、三人で一杯のかけ蕎麦を食べたこと。三人で一杯のかけ蕎麦だったのに、いつもお店の人は大きな声で、『ありがとうございました。よいお年を!』と言ってくれたこと。その声が、『負けるな!がんばれ!くじけるな!』と言ってるように聞こえたこと。
だから、将来は蕎麦屋になって、『ありがとうございます!」ってみんなに元気をあげたいということ」

その時、北海亭の主人と女将は、話を聞きながらカウンターの後ろでしゃがみこみ、一本のタオルの両端を引き合い、涙をふいていました。

その日のお母さんと子どもはしんみりとお互いの手を取り合ったり、笑いころげて肩をたたきあったり、前の年とは全く違った雰囲気でそばを食べました。

帰りに「ごちそうさまでした。おいしかったです。」と言うと、300円払い、深々と頭を下げて出て行きました。

主人と女将は、その年最後の三人の客を、大きな声で送りだしました。

「ありがとうございました。よいお年を!」

その翌年、3人はお店に現れませんでした。

しかし、北海亭の2番テーブルは「幸せの2番テーブル」として有名になっておりました。

それから10数年後、ジャケット姿の2人の若者が入って来ました。

女将が、「すみませんが満席なので。」とお断りしようとすると、着物姿の女性が入ってきて、

「あの、かけ蕎麦3つなんですがお願いできますか?」

女将は、その声を聞いて、主人と目を合わせて、「えーと、そちら、そちらさまは」女将はとまどいながら言いました。

すると若者の一人が答えました。

「私たちは14年前の大晦日に、ここで一杯のかけ蕎麦を3人で食べた親子です。一杯のかけ蕎麦に勇気づけられて3人で助け合ってきました。今年、私は医師国家試験に合格し、研修医として京都大学付属病院で働いています。弟は、蕎麦屋さんにはなりませんでしたが、京都の銀行に勤めております。人生で最高の贅沢・・・大晦日に母と一緒に北海亭に行って、かけ蕎麦を三つ注文する、ということを弟と計画しました」

そのお話を聞きながら主人と女将の目には涙があふれてきました。

近くで蕎麦をすすっていたおやじさんが蕎麦をゴクッと飲み込むと、立ち上がりました。

「お二人さん!何をもたもたしているんだよ。十年間、待っていたんだろ。ついに来たんだよ。お客さんをテーブルに通しなよ!」

その声を聞いて女将は、涙ながらに大きな声で言いました。

女将「いらっしゃいませ!お待ちしておりました!かけ三丁!」

主人「あいよ、かけ三丁!」

二人とも涙ながらにいつも通りの声を出して、いつも通りに3人を見送りました。

「ありがとうございます。どうか、よいお年を!」

【言葉の力】すべての言葉に気持ちが込められております

この話をご存知の方も多いですし、人によって感じるところは様々でしょう。

僕は、「言葉の力」について考えさせられました。

「ありがとうございました。どうかよいお年を!」という言葉に『負けるな!がんばれ!くじけるな!』

という気持ちを感じ、頑張ることができたという内容でした。

私たちの発するすべての言葉にも気持ちがあります。

例えば、「好き」という言葉も気持ちがこもっていなければ相手に伝わりません。

逆に、気持ちがこもっていれば、言葉はどうであれ伝わります。

【南無阿弥陀仏一つ】阿弥陀如来の気持ちのままの言葉です

南無阿弥陀仏という言葉そのものに、私達の気持ちがあるのではありません。

私たちの口から「なもあみだぶつ」という言葉が出てくることそのものが、阿弥陀さまの願いが私たちの元で成立しているということであります。

つまり、私たちが「なもあみだぶつ」と称えている事実はそのまま、阿弥陀さまが私たちを救いとるためにはたらいていてくださる事実であります。

だからこそ、「なもあみだぶつ」が出てくる現実をともによろこび合えればと思います。