
虐待やDVの悲しいニュースがなくなることのない時代
2019年1月にも虐待で10歳の娘さんが亡くなってしまう悲しいニュースがありました。
容疑者の父親の携帯電話から、虐待した様子が撮影されている動画が発見されました。
しかも、亡くなる前日に撮影されたものです。
亡くなった女の子は何度も画稿に相談していたそうなので、衰弱しきっていたのだろうと思われます。
そんな弱りきった娘さんを撮影している容疑者の気持ちを理解することはできません。
かばう気もありません!
でも、ただ責めるだけでは、時が経てば忘れられます。
世の中の事件を、ついつい他人事だと考えてしまいます。
辛く悲しい事件も決して他人事ではなく、今を生きる私に降りかかってくる現実だと思います。
児童虐待13万件、DV7万件、暴力は終わらない
児童相談所への相談件数は平成29年度に13万件を超えました。
おおよそ1日に360件、1時間に15件という計算になります。
児童虐待だけではなくDVで警察に相談した人の数も平成29年に7万件を超えたそうです。
無抵抗な相手に対して暴力を振るうことは間違い無く悪いことです。
「しつけ」という言葉で言い訳をする方もいますが、「相手によくなってほしい」のならしつけでしょう。
しかし、度を超えた暴力はしつけではなく自分の感情ですよね。
手を出す暴力だけではなく精神的に相手を追い詰めることも虐待です。
そんな児童虐待やDVをする人には内弁慶の性格の方が多いと言われております。
内弁慶をする裏には感情を出せない悲しい現実もあります
内弁慶は外では人に対してあまり意見を言えず、おとなしい「いい人」ですが、家に帰ったら態度が大きくなって家族に八つ当たりをしてしまう。
DVをしてしまう人をかばっている訳ではありませんが、そういう方も社会での苦労を抱えて生きているんです。
現代は「競争社会」と表現されるほど、自分の価値をいかに主張するか、相手に認めてもらうかが大切な時代になっています。
確かに、競争が社会を発展させていきますので、競争も必要だと思います。
しかし、そのせいで息のつまる時代になってきました。
世間では良い顔をしていないとすぐに社会的信用が失われてしまう。
誰もが八方美人になってしまう世の中のようです。
本当の自分の気持ちを吐き出すことはなかなかできません。
でも、自分の気持ちを吐き出せないから虐待やDVを犯してしまうのは悲しいことだと思ってしまいます。
「やめたい」けど「やめられない」つらさを抱える
「やめたい」と思いながら虐待をしてしまう方も多い現実があります。
虐待をやめるための相談所もたくさんあります。
言葉を聞いているとつらく感じます。
それと同時に、決して虐待は他人事ではないと思いました。
「やめたい」と思いながらしてしまうのは、虐待はダメという自覚があるからです。
第三者の目線で「虐待するなんて信じられない」と思っているのと気持ちは同じです。
いつ、私が加害者になっても不思議ではないんだって知らされます。
私自身がいつどんな行動をとるかわかりません
『歎異抄』という書物の中に、親鸞聖人とお弟子の唯円さんの会話があります。
親鸞聖人「唯円よ、私の言葉を信じるか」
唯円「はい、信じます」
親鸞聖人「ならば千人殺しなさい。そうすればあなたはまたがいなく救われます」
唯円「私には、一人も殺すことができません」
親鸞聖人「それでは、なぜ私が言うことに背かないと言ったんだ!これで分かっただろう、なんでも思い通りになるなら千人殺しただろう、しかし、一人を殺す縁もないから殺さないのだ、私の心が良いから殺さないのではない、また、殺さないように思っていても百人、千人を殺してしまうこともあるんだ」
そのまま言葉を続けて、
さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし
と仰せになりました。
縁があればどんな行動を取るかわからないのが私の現実です。
虐待やDVのニュースからの大切な学び
虐待やDVの加害者をかばうことはできません。
でも、責めて否定だけをして終わるのは「なんか違う」って思います。
いつ、私が加害者になるかわからない。
生きづらい世の中ですので、いつ内弁慶になるかもわかりません。
そんな危険な私が生かされていることに感謝して生きることが大切なんだと思うところであります。