【散る桜 残る桜も 散る桜】一つの俳句が教えてくれた命の真実

【散る桜 残る桜も 散る桜】曹洞宗の良寛さんの俳句

曹洞宗の良寛さんってご存知でしょうか?

たくさんの俳句や漢詩を詠まれた方であります。

その良寛さんが詠まれたとされている詩に次のようなものがあります。

散る桜 残る桜も 散る桜

散っていく桜も、残っている桜も、すべての桜は必ず散っていきます。

それは桜だけではなく、私たちのいのちも同じですよね?

桜が散っていくのと同様に、私たちのいのちもかならず終える時がやってきます。

僕はこの詩を初めて拝見した時に思い知らされたことがあります。

それは、誰かとの死別をした時、「死んでしまったんだね」ではなく、「私も死んでゆくんだね」と受け取る大切さです。

人の死を私の問題と受け取ることが、いのちを無駄にしない方法のひとつです。

「散る桜」と「咲く桜」のどちらが好みでしょうか

散る桜も、残る桜も、ともにキレイですよね。

世間一般にはどうなのか調べてみました。

すると、「満開の桜が綺麗」という意見もありますが、散る桜が綺麗という意見の方が多かったです。

桜といえば花見を連想される方が多いのかも知れませんし、「桜吹雪」という言葉がありますように、舞っていく桜って美しく感じるのかも知れません。

それでは、「生まれる命」と「無くなる命」はどちらが好きですか?

日本では間違いなく「生まれる命」でしょう。

それでは、無くなる命にはどのような意味があるのでしょうか。

僕自身、「無くなっていく命の価値」を、仏教の勉強を始めるまではあまり考えていませんでした。

しかし、勉強を進めていくうちに「無くなっていく命にも尊い意味があったんだ!」という価値観を知りました。

「ただ終える命」ではなく、美しく「仏になる命」を賜っています

「あなたの命、むなしくさせない!」

「かならず、浄土に生まれさせる!」

そのような御心のままにお誓いを建て、私たちにはたらき続けておられるのが阿弥陀さまであります。

つまり、「ただ散っていく命ではなく、美しい命なんだ」という心を与えてくれるのが阿弥陀さまであります。

阿弥陀さまが出遇ってくれた人生は、死を恐れる人生ではなく、死すら救いの尊さを味わうご縁であったと知らせていただく人生であります。

むなしく散っていく人生ではなく、阿弥陀さまのお救いに委ね、仏のさとりを開かせていただく尊い人生を送らせていただきましょう。