
地位や名誉や財産を手にれても失う時は必ず訪れます
浄土真宗とは、『仏説無量寿経』という経典を根本とされている教えです。
そこには、阿弥陀如来のお救いが説かれております。
そして、阿弥陀如来が放っておけなかった私のすがたが説かれております。
その内容は、2500年前に説かれたと思えないほど今を生きる私たちが共感できる内容ばかりでありました。
摧砕によりて身亡び命終れば、これを棄捐して去るに、たれも随ふものなし。尊貴・豪富もまたこの患へあり。憂懼万端にして、勤苦することかくのごとし。
災難にあって自分の命を失うようなことがあれば、すべてのものを残してただひとりこの世を去るのであって、何も持っていくことはできません。身分の高いものや富めるものでも、やはりこういう憂いがあります。
生きている間、私たちはひたすら安定を求めます。
では、安定するために何をするのでしょうか?
まずは経済的な安定のためにひたすら仕事をします。
そして、無意識に名声を求め、地位や名誉をこほるようになってゆきます。
すべてを手に入れても満足することはありません。
「もっと欲しい。もっと欲しい」
それが人間の持ち前でありますから、さらに追い求めてゆきます。
やがて、いのちを終える時がやってきました。
さぁ、あなたは何のために生きてきたのでしょうか?
いのちを終えるその時に、その理由が明確になっていなければ寂しいことでしょう。
どんなに満足できる生活であっても、それでは何の意味もありません。
欲望のままに地位や名誉や財産を追い求めて、いのちを終えたらすべて失う。
そのような人生を「むなしい人生」と言います。
それは、「死んだらおしまい」という価値観しかない人生です。
「死んだらおしまいの人生」ではなく「死に意味のある人生」を送る
皆様の人生は、「死んだらおしまい」という「むなしい人生」でしょうか?
死にすら大切な意味のある人生でしょうか?
多くの方が死を避けて、死に意味を見出せないままに人生を終えていくのだろうなと感じております。
しかし、浄土真宗のみ教えを聞かせていただきますと、決して「死んだらおしまい」ではないことが知らされます。
いのちを終えることは滅びではなく、仏のいのちを賜る尊いご縁であったことを知らされます。
ただ闇雲に仕事をして、地位や名誉を追い求めるだけになってしまうのが人生かもしれません。
しかし、それではあまりにもむなしいです。
一歩立ち止まって、「生きている意味」を考えてはみませんか?
このいのちは、「仏様のいのちを賜るための貴重な人生を歩んである」と知らされることで、仕事や家庭生活などの日常を、より意義あるものにできると思いますよ。