【ヘレンケラーの人生観】困難は避けるものではなく受け入れるもの

【ヘレンケラー】想像もできない苦難を背負われた生涯

ヘレンケラーさんについてはご存知の方が多いことだと思われます。

インターネットで「ヘレンケラー」と検索すると「三重苦」という言葉がよく出てきます。

ヘレンケラーさんはわずか1歳半の時に高熱で生死をさまよいました。

なんとか一命を取り留めることができたのですが、その時に聴力と視力を失うという障害が残ってしまいました。

視えず聴こえずなので、話すことさえできなくなったんです。

見えず聴こえず話せずという三重苦。

「見えず聴こえず話せず」という言葉を聞いた時に、僕には想像すらできないと思いました。

きっと、「自分が生きている」こともわからないと思います。

真っ暗闇で何も聴こえない。

そんな状況から、家庭教師のサリヴァン先生にであって指文字で「言葉」を覚えていくんです。

半年で指文字だけで500もの単語を覚えて「話すこと」もできるようになって、障害を抱えておられる方々を支援する生涯を送られました。

私たちにとっての「当たり前」は「恵み」の中にいること

もしも、ヘレンケラーのような境遇に置かれたら、僕は生きていく自信すらありませんけど、もし生きられたら「物が見えること」「音を聞けること」って本当にありがたいことなんだって実感できるんでしょうね。

と言いますのも、「もしも3日間だけ視力が与えられたら何をしたいですか?」と聴かれた時に、三つのことをおっしゃったんです。

ヘレンケラーがしたかった三つのこと
  1. 早起きして美しい曙がみたい
  2. サリヴァン先生の顔を見てお礼が言いたい
    そして・・・
  3. ごく普通の生活がしてみたい

美しい景色が見たい。普通の生活をしたい。お礼が言いたい」って、当たり前にできるのに毎日感謝せずにグチばっかり言いながら生きてる自分の小ささを感じます

僕がヘレンケラーのような状況になったら、僕なんかはとにかく自分の大変さを知ってほしいって自分のことをわかって欲しいって思ってしまいそうですが、ヘレンケラーはそうではありませんでした。

感謝に生きられていたんです。

それも視えず、聴こえずという障害に感謝していたんです。

ヘレンケラーはこうおっしゃってるんです。

「私は、自分の障害に感謝しています。自分を見出し、生涯の仕事に出会えたのもこの障害のお陰だからです」

自分がどんな境遇で生まれてきても、あるいは、人生でどんな困難が襲ってきても、その困難を受け入れて感謝できる人生って前向きな人生ですよね。

現実を受け入れることで人生は間違いなく変わります

現実のつらさを受け入れることは非常に困難です。

でも、くよくよしていても現実は変わりません。

受け入れて、より前向きに一歩を踏み出していくことが大切なんだとヘレンケラーの人生から感じます。

浄土真宗の開祖である親鸞聖人が冤罪で流罪になった時も同じだったのかも知れません。

尊敬する師匠と流罪で今生の別れをしてしまう。

しかも、冤罪です。

不条理なことで処罰され、親鸞聖人も怒りの心を持っていたそうです。

しかし、怒りだけではありませんでした。

流罪が新しい土地へ仏法を伝えるためのご縁と受け取られていかれたんです。

困難を受け入れるなんてなかなかできないです。

でも、困難を受け入れたからこそ「有難い」人生に派生していったんです。

阿弥陀如来は「煩悩抱えたあなただからこそ放っておけない」とおはたらきなんです。

煩悩に感謝するという話ではなく、煩悩抱えているから、どうしようもない私だからこそ、放っておけない。

どうしようもない困難を抱えているからこそ、私を絶対に見捨てない仏様のお心をよろこばせていただく。

そんな人生があることを、普通の生活ができないつらさを感じながらも障害に感謝したヘレンケラーの人生から感じます。