【命の終え方】すでに安心に包まれていることを教えてくれる仏様

死因を選ぶことはできないけど希望を持つことはできます

みなさまは理想的な命の終え方について考えたことはありますか?

みなさまはどうやって死んでいきたいですか?

そのように大勢の方の前で尋ねると、

ポックリ逝きたい!

という答えが返ってくることが非常に多いです。

この言葉を聞く度に「完全に死に方を選ぶことができない現実があるなぁ」と感じます。しかし、理想的な死に方を考えておく権利も私たちは持ち合わせております。

という訳で、僕が25歳くらいの時から考えてた理想的な命の終え方を勝手にここで発表いたします。笑

不安ではなく、仏になるという確信のまま命を終える方法

僕自身、死ぬことについて全く考えない人生を歩んできました。よく考えますと、必ず経験する死を考えないのは勿体無い人生ですよね。

しかし、仏教の勉強を始めてから、「死ぬ時に不安を感じたくない」という気持ちを持つようになってきました。

だからこそ、命を終えていく時に、

「私は間違いなく仏になるという確信のもとにいのちを終えていく」

という具体的な目的のある死に方をしたいと思っております。

そのために、大きな阿弥陀如来の下で、みんなに「なんまんだぶ。なんまんだぶ」と言われながら、

「阿弥陀如来のおはたらきは間違いなく俺に届いている。俺は間違いなく仏になるんだ〜」

そう思いながら「ガクッ」と亡くなっていきたいって思ってます。

それなら何の不安もありませんよね。むしろ、安心の中にいのちを終えていけると思います。

死は避けられない現実と、見捨てない仏様がおられる現実

ここでは、このようなブログを書いておりますが、実際にいのちを終えていく時にはそうはならないでしょうね。

自分のいのちが危なくなったら、

「そっちには行きたくない〜」

そう思っても、ピーポーパーポーって救急車に載せられて白い壁に囲まれた部屋に連れて行かれるんですよ。

連れて行かれて、余計なことを考えなくなると思います。

それだけではなく・・・

今は「仏になる」って言ってますが、そんなこともすべて忘れてしまうでしょうね。

お参りに来られた方の顔もわからなくなるでしょう。

酸素マスクを付けられて何もお話ができなくなり、笑うこともできなくなると思います。

他の方は僕のいのちを、「もうすぐ終わっていくいのち」と捉えるでしょう。

自分がすべてを忘れて、相手は自分を忘れて、目を閉じたらすべてが終わってしまうと思うのかも知れません。

その瞬間が本当に寂しいときだと思います。

「人は、独り生まれて独り死んでいく」

その現実を実感した時、本当に寂しいと思います。

でも、何もかも忘れて、忘れられるその時に、私のことを決して忘れない方が存在します。

それが、阿弥陀如来。

その阿弥陀如来のおはたらきが、今、私たちに届いているすがたが、

なんまんだぶ、なんまんだぶ

浄土真宗のお勉強ができる素敵な書物を紹介します