
素晴らしい私になるよりも至らない私になる方が大切でした
人生、誰もが素晴らしい人間になることを目指します。
人よりも能力を付けることも目指します。
それも非常に大切なことです。そうやって、私たちは目の前のことから避けずに努力をして強い人間になることができます。しかし、ただ単純に上を目指す生き方だけで本当に幸せになれるのでしょうか。
浄土真宗本願寺派の大谷光真御門主さまは「こころの進歩」という言葉で新たな気づきを与えてくださいました。
書物の中で述べられた言葉なのですが、そこでは次のようにさ著されております。
「こころの進歩」とは、ほかの人と比べてよりよい人間になることを言うのではありません。自分がいかにいたらない人間であるか、いかに自己中心的な人間であるかに気づきはじめることを言います。そこに気づけば、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という箴言にもあるとおり、おのずから他人に対して謙虚になります。
『人生は価値ある一瞬』87ページより引用
「自分がいかにいたらない人間であるか、いかに自己中心的な人間であるかに気づきはじめること」を「進歩」という言葉で表現されたところに、私自身、自身のいたらなさを知らされます。
知能は勉強すれば育つものかもわかりませんが、このような人格は育つものではありません。
「自分のいたらなさ」に目を向けて生きようとしないのが人の性であり、むしろ自分の優れているところに目を向けようとします。また、様々な知能や、人間としての能力を付けることを一般的には「進歩」と言われるのではないでしょうか。
決して「自身のいたらなさ」に目を向けることを進歩とは言いません。
しかし、本当に素晴らしい方に出会わせていただいた時、至らない自分のすがたを知らされます。
自己中心的な人と人の比較からは何も生まれません
自分自身のすがたが最も見えないのが人間の性質であります。
気付いたら、他者の能力や資質を判断し、優劣関係を付けてお互いに傷つけ合ってしまいます。
それだけではなく、自分自身を保つために良い点は過大に評価し、悪い点は過小に考えてしまいます。その証拠に、人に褒められたことを人間はよろこび、忘れようとはしないものです。
しかし、人と人を比較して一喜一憂している限り、本当に大切なことに気づかないでしょう。完璧じゃない人間を対象に比較しているのですから。
誰もが煩悩を抱えて生きている人間同士を比較しても、何の意味もありません。
それよりも、本当に尊い仏さまの心を通して自身のいたらなさを知らされる人生を送ることが大切なことを、私は浄土真宗のみ教えを通して知らされました。
至らない私だからこそ、放っておけない仏様の心が至り届いております
私が完璧ならば、仏さまは必要ありませんでした。
私が完璧ならば、仏さまが「私を救う」などと誓わなくてもよかったのです。
完璧ではなく、いたらない私であり、そのような私だから「決して見捨てない」と誓わずにはおれなかった阿弥陀如来でありました。
いたらないことに恥じらいつつ、周囲に感謝しつつ、
「そのような私を放っておかない阿弥陀如来にお互いに出遇えてよかったね」
そう笑い合える生涯を送らせていただきましょう。