バリ島での新婚旅行は楽しさだけではありませんでした・・・
既婚者の方は新婚旅行へは行かれましたか?
僕は夫婦でハワイに行きたかったのですが、予算的にどうしても無理でした。
そこで、発展途上国に行こうということになりバリ島へ行きました。
※バリ島も予想以上に高かったです・・・泣
新婚旅行なので、「ワイワイ楽しめたら最高!」って思っておりました。しかし、バリ島の方々の思想や人生観には色々なことを考えさせていただきました。
いい経験になったのでみなさまにシェア致します。
日本での仕事はクレーマーが多いですが、バリで自由を感じました
バリ島に到着して、まず空港の警備員を見てカルチャーショックというものを感じました。
みんな座り込んで携帯電話をいじっているんです。
日本ではあり得ない光景ですが、「日本人が固すぎなのかな?」って思いました。
だって、僕も警備員の経験がありますが、日本では座って作業をしていたら先輩に当然のように怒られます。
仮に怒られなくても、お客様からクレームがありますよね。
ちなみに、クレームを付ける方の心理として、ストレスからの八つ当たりや自分を認めてもらうといった対人関係の問題があるようです。
でも、それだけではなく、「普通はこうだろう!」っていう自分ルールがあるそうです。
僕の友人でよくクレームを言う人がいるんですが、クレームを付けるのは「相手のため」ってよく言ってます。
しかし、相手のためと言いながらも、クレームを出す友人自身から「どうしてもクレームを出したい」と言う気持ちを感じることが多いんです。
そんなことを言っている僕も、たまに料理に髪の毛が入っていたら「イラっ」とすることがあります。
でも、僕は気が小さいからそのまま食べるんです。
クレームを言う心はあっても、クレームを出さないからクレーマーと呼ばれないだけですよね。
結局は、言葉を出すクレーマーもそうでない方であっても、誰もが自分の価値基準で物事を判断して生活しているんです。
仮に、バリ島では当たり前のように許されますが、日本で警備員がクレームを出されるとしたら、日本人の価値観はバリ島よりも固いことになります。
堅く生きる事も大切ですが、そのせいで窮屈さを感じることがあります。
何も考えずに笑って過ごす日々も大切ですよね。
時にはバリの方々のように堅くなく柔らかいくらいの生き方をできたら素敵なことだと思います。
【バリの信仰】サロンという布が教えてくれる平等さ
日本のメインとなる信仰は仏教ですが、バリではヒンドゥー教がメインなんです。
ヒンドゥー教では仏様ではなくて神様にお祈りを捧げるんですけど、お寺にお参りに行く時には「サロン」っていう腰に巻く布が必要です。
みんながサロンを付ける理由を聞いたら「神様のもとではみんな平等だから、全員が同じようにサロン(腰巻)を付けるんだよ」と教えてくれました。
日本の浄土真宗のお寺は平等です。
平等な救いをみんなで一緒に聞かせていただくためにお寺の本堂も基本的には内陣よりも外陣が大きくなっています。
しかし、服装は同じじゃないですよね。
僧侶という立場の服装をしています。
バリ島ではそこまでも平等なんです。
誰もが同じようにサロンを巻いて、一緒に神様への感謝のお祈りをする。
服装にまで平等な意味があるのは、僕にとっては刺激的でした。
浄土真宗のお寺でも、僕はみんなで一緒に阿弥陀如来に向かって合掌している姿が好きなんです。
一緒に合掌している時は日頃のわだかまりは全て忘れることができます。
皆様は、イライラしながら合掌していることはありますか?
平等にお救いくださる阿弥陀如来のもと、一緒に合掌できる尊さをお寺で感じ合いたいものですね。
神様はいつも見ています。どこでもお供えしています
それぞれ違うガイドさんが、
「バリ島は生きてるから悪いことしたら必ず返ってくる」
「神様が見ているから悪いことはできない」
そう仰っておりました。
そして、「チャナン」っていう神様へのお供え物がどこにでもあるんです。
露天にもトイレの前にもあります。
バリ島そのものが神様の土地で、バリ島全体で信仰していました。
日本もそうなったら良いのにな〜って思います。
と言いますのも、阿弥陀如来のお救いの範囲は「広大にして辺際なし」と表現されておりお救いが届かない場所はないんです。
私たちがどこに行こうとも阿弥陀如来の手のうちなんです。
どこまでもどこまでも南無阿弥陀仏とおはたらきくださるのが阿弥陀如来なんです。
どこまでも私と一緒だから、確かなよりどころになるんですよね。
子ども達の気持ちに寄り添えなかった罪悪感がありました
バリ島に行くと悲しいことを感じることもあります。
ガイドさんからこう言われました。
「子どもが何かを売ってくるかも知れませんが、買ってしまったら大人もみんなが付いてくるのでなるべく買わないでください」
その言葉を聞いた時は普通に「わかりました」って答えたのですが、実際に現場の子どもに会うと心が痛くなる気持ちでした。
ある寺院に観光に行って車を降りた時、ポストカードを持った小さな子どもが僕と嫁の周りをウロウロしながら「買って買って買って」ってずっと付いてきたんです。
単なる小遣い稼ぎのような言い方なら何も思いません。
「買ってくれないと困る」って必死な表情なんです。
学校に行けない子どもも多いって聞いてましたので心が痛みました。
それと同時に、買わなかったこと私の心に罪悪感を感じました。
見捨てたのと同じです。
周囲を見渡しても無視する観光客がほとんどなので、子ども達は「どうせ買ってくれないだろうな」と思っていたのかも知れません。
でも、無視をした私は見捨てたのと同じです。
阿弥陀如来という仏様は、他のどの仏様が私を見捨てても、決して私を見捨てなかった仏様です。
他の仏様が「無理無理」ってなっても阿弥陀如来だけは「どんなに苦労をしても救い出したい」と願われ、願いの通りに南無阿弥陀仏の名となって私にはたらき続けておられます。
私の汚く醜い心と同時に、お救いの頼もしさを感じずにはおれませんでした。
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