葬儀は色々な気持ちを感じられる唯一無二のご縁
僕は葬儀社で勤務しておりました。
葬儀社で勤務していると、色々な方の色々な気持ちを感じます。
葬儀は悲しみの場だと思われている方も多いですが、決してそれだけではありません。
「故人もようやくラクになれたんだ」という安心の気持ちを感じることもあります。
時には、葬儀のご縁で温かさを感じられることもあります。
僕自身、そのような感情が湧いてきた葬儀があるのでここで皆様にシェア致します。
【喪主様の言葉】悲しみの中でも相手を気遣う心
会社の重役の方が急死で亡くなった時、たくさんの方が葬儀に来られておりました。
喪主様は40代の息子さんでした。
その息子さんが葬儀後の挨拶で、涙ながらに次のように仰いました。
「私のような若造が言うのは、本当に失礼なことだと思いますが、皆様のご遺族を悲しめないためにも、お身体だけは気を付けてください。少しでも身体の不調があったら絶対に検査を受けてください」
この喪主様は、ご自身の父親を急死で亡くされて深い悲しみの中にいました。
その悲しみを聞いて欲しいという気持ちもあったかも知れません。
でも、
他の方にも同じ悲しみはして欲しくない!
という強い想いに、私自身、心揺り動かされて涙が出ました。
自己中心性を抱えながらも、相手を大切に生きる
天台宗の最澄という方は、「忘己利他」という言葉を残されました。
「自分を忘れて相手を利する」
つまり、自分のことよりも相手のことを大切に生きるということです。
気付いたら自分中心に生きるのが私の性であります。
だから、相手のことを大切に生きることは完全にはできません。
でも、相手の気持ちを大切に、相手を気遣い、相手を中心に物事を考えることはできます。
「忘己利他」はできなくても、この言葉を大切に、人との関係を大切にしたいものです。
自分が悲しみの中にあっても相手を気遣うことができる。相手を大切にすることができる。
そんなことを喪主様のお言葉より知らされました
別れを実感しても、決して「さようなら」ではない教え
僕が葬儀社員として働いていた時、不思議だったことがあります。
それは、葬儀後に棺にお花を入れる時の涙です。
それまで平気な顔をされていた方の目から、急に涙が溢れることがあります。
それだけではありません。
横にいる子どもが急に泣き崩れる時もあります。
ご遺族の気持ちに敏感になると、棺の蓋を閉じることができない時があります。
姿形との別れを実感することは悲しいことです。
それまで見れていた顔が、もう二度と見れなくなる。
そう実感した時、「待って!」という想いが生じるのは自然なことです。
浄土真宗のみ教えは、そんな私の心を支えてくれます。
姿形は見れなくなるけど、別れじゃないんだよ!
浄土真宗のみ教えは、そう教えてくれます。
姿形との別れは必ず訪れますが、阿弥陀さまに救われている私たちの命は、お浄土という阿弥陀さまの世界に間違いなく生まれさせていただきます。
そして仏の命をいただいて、私たちとずっと一緒なのですから、「別れ」という言葉だけでは表現できないでしょう。
浄土真宗のみ教えが、命の終わりをただの別れとしか思えなかった私の価値観を変えてくれます。
コメント