お坊さんは多くの出会いと教えてくれることが多い恵まれた職業
お参りに行くたびに、出会うすべての方が色々なことを教えてくれます。
お寺の社員として福岡県ではたらかせていただいていた時も、様々な方との出会いをいただき、色々なことを教えていただきました。
特に、忘れられない一つの思い出があります。
それは、私が出会った頃84歳の女性の方との出会いであります。
ここでは、定番の「Aさん」と言います。
その方は、世間で言うところの浄土真宗のみ教えにとても熱心なお同行さんでした。
当時、24歳の若輩者の私でも、同じ目線で接していただき、お参りに行くたびに仏さまのご縁をと多大なお育てをいただきました。
福岡県ではたらいていた時、ご年配の方々が集まる場所に、また他の御門徒さまから「ちょっとお話しに来て〜や」と言われて色々な場でご縁をいただいていたのですが、Aさんがいると、ひたすら仏様のお話になります。
僕は、「仏さまのみ教えは、こんなに元気を与えてくれるんだ!」ということを、その方のすがたから知らされました。
葬儀会館に入りきらない程の人数だけど家族葬?
Aさんにはたくさんのお育てと思い出をいただきましたが、その中でも決して忘れることのできない思い出があります。
それは、Aさんの104歳の母親が亡くなったお通夜の時であります。
Aさんは家族葬にしようと思って、御香典も断っておりました。
しかし、Aさんの気さくな人間性、そして田舎の噂の広まるスピードも相乗してのことでしょう。
町中の方が集まって、ホールに人が入りきらないほどのお通夜になりました。
言葉で励ましても傷付けるだけ。大切なのは寄り添い
後々、Aさんに言われたことに、私自身、気持ちに寄り添う大切さについて実感させられました。
104歳という、一般的には高齢な年齢で亡くなられましたので、お通夜、葬儀に来られる方々がAさんにこのように言ったそうです。
「104歳まで生きられたら大往生やね〜!」
何気ない言葉のようですが、Aさんは言われるたびにつらかったそうです。
なぜつらかったのでしょうか?
それは、Aさんは、こう思っていたからです。
「大往生とかじゃなくて、私はもっと生きていて欲しかった」
亡くなる年齢と人の気持ちは別の問題であることを知らされました。
職業柄、若い方が亡くなった時によく聞く言葉があります。
「まだ若いのに、かわいそう」
絶対に言っちゃいけない言葉ですね。
年齢は若くても、病に苦しんでいるすがたを長く見ていたら、近くの方はどう思うでしょう。
「まだ死なないで」
とは、あまり思わないのではないでしょうか?
それよりも、
「もう苦しんでいるすがたを見たくない」
そのように思われる方が多いのではないでしょうか。
第三者が、自分の考えで、「長生きしたからいい」、「大往生だ」と励ます気持ちが遺族を傷つけてしまうことがあります。
相手の気持ちそのままを受け止めるのではなく、自分の意見になってしまっていないかを、日頃の生活から考えないといけないと思わされます。
きっと、本当に相手に寄り添うということができているならば、余計な言葉をかけることはしないんでしょうね。
「もっと生きていて欲しかった」という気持ちを敏感に感じた時、自然と「もっと生きていて欲しかったよね」という言葉が出るのかもしれません。
相手の気持ちに寄り添うということは、相手に同情することでも、相手を励ますことでもありません。
仮に、何かをしないといけないと考えるならば、声をかけるのではなく、相手と同じ状況には決して立てないという自覚のもとに、相手と同じ目線に立とうと努力をさせていただき、相手の苦悩をそのまま受け止めさせていただくことです。
南無阿弥陀仏を哀しく感じたお通夜の思い出
Aさんの母親のお通夜の時、僕はお坊さんとして一番前でお勤めをさせていただいてました。
すると、スグ後ろから、いつも楽しく阿弥陀さまについてお話しされるAさんの悲しくて、大きな声が聞こえてきました。
「なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ」
その声が悲しくて、お坊さんとしてお通夜のお勤めしているにも関わらず、5秒間くらいお経が読めなくなりました。
そのお通夜、そしてお葬式に聞こえてくる「なんまんだぶ」の声は、僕にとってただ悲しいだけでした。
中陰(七日参り)で感じた放っておかない阿弥陀如来のお心
それから、毎週、Aさんのお宅にお参りに行っておりました。
毎日のお参りの中で、Aさんのお宅に行く時間は定まっていませんでした。
午後以降で、Aさんが自宅におられる時にお参りに行く感じでした。
3週目の後、Aさんに「来週から、最後にお参り来て」と言葉をいただき、翌週からお参りの最後の夕方頃にAさんのお宅にお参りに行きました。
そして一緒にお勤めをして、後ろを向いたら、大好物の味噌汁とぬか漬けとふっくら炊き上がったご飯を用意してくれていて、毎週、お勤めの後に一緒に阿弥陀さまのお話をしながら料理をいただいておりました。
本当に、「お坊さんって恵まれているな〜」と実感させていただきました。
そして6週目の時、Aさんから、決して忘れることのできないお言葉をいただきました。
「かあちゃん、死んだ時悲しかったけど、阿弥陀さまがおってよかった」
この言葉を聞いた時、なんかわからんけど、メッチャ温かな気持ちになりました。
お通夜、葬儀の時の別れのお念仏は悲しい気持ちしか感じませんでしたが、その時は、それ以上の安心感を感じました。
愛する母親を亡くされた時、私のような若造には想像すらできない程の思い出が蘇り、別れの実感とともに襲ってくる悲しさがあったでしょう。
でも、それ以上に、「阿弥陀さまがおってよかった」という言葉に、「生きている限り、決して避けることのできない悲しみの中でこそ、支えとなる阿弥陀さまがいてよかった」という気持ちを感じました。
それほどのみ教えを賜っている今を、お互いに明るく進ませていただきましょう!
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