浄土真宗で最も親しまれている親鸞聖人が残された和歌
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の残された和歌の中でも、特に『恩徳讃』という和歌が多くの方に親しまれております。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし
ご法話の際に拝読させていただくことがあるのですが、人前でこの「恩徳讃」を拝読するとき、先に続きの言葉を言ってくださることがあります。
「本当にたくさんの方に親しまれているんだな〜」と、いつも感じさせていただいております。
でも、「恩徳讃」の歌詞って衝撃的ですよね^^;
実は、非常に有難い意味がありますので「恩徳讃」でのそれぞれの言葉の意味について考察していきます。
恩徳讃での「如来」とはどの仏様?
如来と聞いたら、「阿弥陀如来だ!」と思ってしまいがちでありますが、浄土真宗の経典ではお釈迦さまのことを如来ということもありますし、大勢の諸仏の方々のことかも知れません。
しかし、おそらく「恩徳讃」での如来は阿弥陀如来でしょう。
と言いますのも、「恩徳讃」は『正像末和讃』という親鸞聖人の書物に出てまいります。
『正像末和讃』では「如来」という言葉は多く出てくるのですが、「如来」という言葉単体で表現されている場合、そのほとんどが阿弥陀如来のことであります。
釈迦如来かくれましまして
二千余年になりたまふ
正像の二時はをはりにき
如来の遺弟悲泣せよ
如来慈氏にのたまはく
疑惑の心をもちながら
善本修するをたのみにて
胎生辺地にとどまれり
といった「如来」の言葉でお釈迦さまのことを指す場合もありますが、単体で出てきた場合はほぼ阿弥陀如来です。
仏様の心は「大悲」と表現されます
「大悲」という言葉は「仏さまのお慈悲の心」をあらわします。
実は、「大悲」だけではなく「中悲」「小悲」という言葉も存在しております。
「小悲」
「小悲」というのは、私たちの心で起こす慈悲のことです。
しかし、私たちは感情に揺さぶられながら生きておりますので、相手のことをいつまでも想い続けることはできません。
ですので、「小悲」は完全な慈悲とは言えません。
私たちにわかりやすい言葉では、いつ消えてしまうかわからない、苦悩の根本である「愛」と言えるでしょう。
「中悲」
「中悲」とは、仏道の修行段階にある方が起こす慈悲のことであります。
精神的、物質的な要素である「法」にとらわれながら起こす慈悲のことであります。
この「中悲」も完全な慈悲とは言えません。
「大悲」
それらの慈悲とは全く違った仏が起こす完全なる慈悲を「大悲」と言います。
「小悲」は生き物が縁ですので「衆生縁」と言います。
「中悲」は法という縁によって起こすので「法縁」と言います。
それに比べて「大悲」は、「無縁」であります。
「無縁」とは、縁がないのではありません。
慈悲を起こす自分にも相手にも、愛する方にも憎しむ方にも、なんのとらわれもなく起こす慈悲のことであります。
「救ってやろう」という考えもなく、ただひたすら救済の活動を続ける仏さまのお慈悲だからこそ、「無縁」であり、「大慈悲」と表現されるのであります。
親鸞聖人は、主著である『教行証文類』に、曇鸞大師の『往生論註』の言葉を以下のように引用されております。
慈悲に三縁あり。一つには衆生縁、これ小悲なり。二つには法縁、これ中悲なり。三つには無縁、これ大悲なり。
仏教での「恩」は大切な言葉。「恩徳」ってなに?
「恩徳」という言葉を見ると、すぐに「ご恩」のことだと思われがちであります。
確かに、それでも意味合いは間違いとは言えません。
しかし、「恩徳」とは、「仏にそなわる3種の徳」の一つであります。
- 智(智慧の徳)
- 断(煩悩を断じた徳)
- 恩(あらゆる命を救うためにはたらき慈悲の徳)
ですので、「如来大悲の恩徳」とは「阿弥陀如来があらゆる命を無縁の慈悲によって救うためにはたらき続けておられる」という意味であります。
返しきれない恩の中で。「身を粉にしても」「骨を砕きても」
この歌詞を拝見した時に、「浄土真宗って、メッチャ厳しい教えやん!」まずそう思いました。
身を粉にして、骨を砕いたら、間違いなく人間は命を終えてしまいますよね。
そこまで命がけにならなければならないみ教えならば、僕は学ぶことができません。
やっぱりいざという時には、自分の命や快楽を何より大切にしてしまうのが私たちの生き方だと思います。
しかし、この言葉は次の「報ずべし」「謝すべし」という言葉を味わうことにより、本当にありがたく味わうことができます。
「報ずべし」「謝すべし」という人生観
僕はこの言葉を見た時に、力強い言葉だと感じておりました。
その理由は命令形に聞こえる「べし」にあるように思われるので、「べし」を分けて意味を考え、つぶやいてみようと思います。
「報ず」「謝す」
これは文字の意味そのままですよね。
ちなみに、「報謝」という言葉を日常生活で使用することはあまりありませんが、仏教用語だけではなく、立派な日常用語として次のような意味があります。
1 恩に報い、徳に感謝すること。物を贈るなどして報いること。「恵みの大地に報謝する」「報謝の念を表す」
2 神仏の恩に感謝し報いること。報恩のために金品を寄進したり、善行を積んだりすること。
3 仏事を行った僧に布施を与えること。西国巡礼者などに物を与えること。
つまり、「感謝する」「報いる」という意味であります。
しかし、「報いる」ということについて気を付けなければなりません。
それは、阿弥陀如来のご恩は決して返しきることができません。
私自身が知り得ないほどの迷いの中にいる私を「そのまま」救いとろうという阿弥陀如来のおはたらきが、私の努力によって返せるのならば道理に合いませんよね。
ですので、「報ず」とは「恩返し」する意味ではありません。
「報謝」とは、「返しきれないご恩を知らされ、その感謝の中で、精一杯、阿弥陀如来のお救いをよろこぶ南無阿弥陀仏の生活をさせていただくこと」であります。
それでは、なぜ「恩徳讃」では「報ずる、謝する」という表現ではなく、「報ずべし、謝すべし」という表現なのでしょうか。
「べし」
みなさまは、「〜〜〜べし」という言葉にどのようなイメージをお持ちでしょうか。
親鸞聖人は、書物を通して私たちに命令することはほぼありません。
親鸞聖人自体が、阿弥陀如来のお救いに出遇ったよろこびが書物となって今日に残されております。
ですので、この「べし」とは、親鸞聖人が私たちに命令されたものではないと思います。
「べし」は親鸞聖人がご自身に向かって言われた言葉だと思います
この「恩徳讃」は、次の言葉によって親鸞聖人が詠まれた和歌だと予測されます。
「粉骨可報之摧身可謝之」といふは、大師聖人の御をしへの恩徳のおもきことをしりて、骨を粉にしても報ずべしとなり、身を摧きても恩徳を報ふべしとなり。
『尊号真像銘文』
もしこの語を聞かば、すなはち声に応じて悲しみて涙を雨らし、連劫累劫に身を粉にし骨を砕きて仏恩の由来を報謝して、本心に称ふべし。あにあへてさらに毛髪も憚る心あらんや。
『観念法門』
『尊号真像銘文』は、親鸞聖人の兄弟子である聖覚様のお言葉をそのまま釈されたものでありますが、善導大師の『観念法門』のお言葉を特に親鸞聖人は「恩徳讃」の御心にされたでしょう。
と言いますのも、聖覚聖人のお言葉は「粉骨可報之摧身可謝之」ですので、「骨を粉」「身を砕」となっております。
「恩徳讃」は「身を粉」「骨を砕」ですので、順番が反対です。
それに比べて、『観念法門』のお言葉は、「恩徳讃」の順番そのままになっております。
親鸞聖人は、善導大師のお言葉をご自身への呼びかけと受け取っておられたでしょうから、「恩徳讃」は私たちへの命令ではなく、親鸞聖人ご自身へのお言葉と受け取るべきでしょう。
善導大師の呼びかけを、そのまま今を生きる私たちに和歌として届けてくださったのが「恩徳讃」であると味わうところであります。