友人の電話から感じた悲しい気持ち
僕が京都から香川県へ帰っている時のお話です。
昔からの友人から電話がかかってきました。
いつもふざけ合いながら話している友人なので、その時も「しもしも〜!」ってとあるお笑い芸人のモノマネをしながらふざけて電話に出てみました。
いつもなら、「お前つまらんわ!」ってツッコミが入るのですが、その時は、今まで聞いたことのない震えるような友人の声が聞こえてきました。
「子どもが流産したから火葬場でお経あげてくれんか?」
ただ悲しさしか感じることができませんでした。
「わかった。もうすぐで香川県に着くから時間がわかったら教えて」とだけ言って電話を切りました。
お坊さんだからと気軽に誰かを励ますことはできません
いつもなら、何か声をかけたり、励ましたりという頭があったのかも知れません。
でも、その時はそんな「余計なこと」を考えませんでした。
お坊さんとしてお参りさせていただくと、色々な相談を受けることがあります。
こんな若輩者でも人生の先輩方が同じ目線で接していただけるのは、お坊さんの服装が偉そうだからだろうなっていつも思います。
家族間の問題など、土足で入っていけないことについてもよく相談されます。
時には、「お坊さんとして、どういう答えがある?」という質問を受けることがあります。
そんな時に仏様を中心とした言葉を言うこともありますが、相手の気持ちを聞くばかりの方が圧倒的に多いです。
気持ちを吐き出してスッキリして笑顔になるご門徒様を見た時に、僕自身が嬉しくなります。
そんな時に、否定も肯定もせずに、ただ私を救うはたらきになってくださった仏様を伝えるお坊さんの仕事ができたのかも知れないなって少しだけ思ってしまうことがあります。
これはただの慢心ですから気を付けなくてはなりませんね。
たとえ相手がどんなに仲のいい友人であっても、声をかけたり励ましたりという行動をとることはできません。
友人の電話を切った数時間後に、友人の母親から電話がかかってきて、火葬場の場所と時間を教えてくれました。
悲しみに包まれた火葬場と友人の言葉
火葬場でのお勤めは昼の1時からの予定だったので、その30分前に火葬場の駐車場に着いて、車の中で葬儀の服装に着替えました。
そして火葬炉の前で待機していると、みんな集まってきました。
友人の両親や兄弟はみんな昔からの知り合いだったので、「久しぶり〜〜〜!」みたいな感じになるかというと、当然ながらそんなことにはなりませんでした。
みんなが涙を浮かべていて、正直、お勤めするのが苦しかったです。
お勤めの途中でお焼香をしていただくのですが、その時に一番に友人ではなく、奥さんの方に向かって、「それでは、お母さんを先頭にお焼香をお願いします」と言って10番にお焼香をしてもらいました。
その時の奥さんの悲しそうな顔に、僕自身もつられて涙を流しながらお勤めをしました。
全員がお勤めを終わって、棺を火葬炉に入れた後に、友人からこう聞かれました。
「お骨がもし出たら、全部お墓の中に入れんといかんのか?俺が持っとっても大丈夫か?」
僕は、「もちろん、全部持っとっても大丈夫やで!!」と返事をして、火葬場を後にしました。
お仏壇に飾られた小さな骨壷が教えてくれた
それから、ちょうど四十九日目に友人から連絡があって、夕方、一緒にお食事をするために友人の家に遊びに行きました。
いつも遊びに行ったら、まずお仏壇のところに行くので、その日も何となくお仏壇の方に行くと、お仏壇の真ん中に骨壷が置かれていました。
友人に聞いたら、火葬場でお勤めをしてからは毎日のようにお仏壇の前に置いてある骨壷にお参りをしていたそうです。
その日も変わらずに友人と奥さんがお仏壇の前に座っていたのですが、その様子を見ると、亡くなった子どもが友人をお仏壇の方に向かわせているようにしか思えませんでした。
その様子そのものが、亡くなった子どもを通して阿弥陀さまに導かれているすがたにしか思えませんでした。
お仏壇の方に向かうことはなかった友人に、
「お父さんもお仏壇に手を合わせようよ!」
「阿弥陀さまのご縁にであおうよ!」
亡くなった子どもがそう呼びかけておられるように感じました。
その日も一緒にお酒を飲みながら色々なお話をしたのですが、変わったことがあります。
それは、今まではアホみたいなことばかり言っていたのですが、その日は僕に仏様のことを聞いてきました。
「俺も仏さんの勉強してみようか!」
そう笑いながら話す友人、そして僕にも、阿弥陀さまは平等にはたらいておられます。
その時の友人の安心した表情が、阿弥陀さまのお救いの確かさを実感させていただきました。
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