【自分が生きる支え】自分を大切に思ってくれている存在
自分が苦悩の中にいたら、自分より苦悩を抱えておられる方のことが見えてきません。
そして、自分を最も大切に思ってくれている存在も見えてきません。
そんなことを、ネット上にあった「手話」というお話から考えさせていただきました。
私は、このお話を拝見した時に、
「私に代わって苦労された存在がいる」
「その事実が生きる支えとなっていくんだ」
ということを感じずにはおれませんでした。
【手話】つらさの中でも感謝が生じるほどの救い
そのお話の主人公である少年A君は、耳が不自由で、耳が聞こえない方でありましたので、物心ついたときには手話でお話をされていたそうです。
A君の母親は、A君が生まれた後すぐに事故で亡くなってしまい、お父さんと二人暮らしでありました。
A君は、耳が聞こえないことでたくさん辛い経験をされたそうです。
普通の学校には行けなかったばかりか、母親がいなかったために近所の子ども達にバカにされ、何を言われたかわからないですが、上から見下されたような顔を忘れることができませんでした。
そんな悲しい時、
「なぜ私がこんな目に合わないといけないの?」
そのような感情でいっぱいだったそうです。
やがて家に引き籠ってしまい、思春期の多くの家の中で過ごしました。
A君は、何も悪いことをしていないのに不幸な目にあうのが悔しくて仕方がありませんでした。
その想いは両親への憎しみへ変わっていきました。
父親に憎しみの想いを手話で叫び、父親は何も抵抗せずに、ただ「すまない、すまない」と涙を流しながら手話で謝るばかりでした。
そんなA君の唯一の理解者が、病院の先生だったんです。
耳が聞こえないとわかった時からいつも悩み相談にも乗ってくれ、父親を傷つけてしまった時も、優しい目で何も否定せずにただ優しく聞いてくれる先生が大好きでした。
ある日、A君はどうしようもなく傷つく出来事があって、先生のところに相談に行きました。
長い愚痴のような相談の最中、A君は「死にたい」と手話で表現した時、決して怒ることのない先生が怒り出し、A君の頬を思いっきりしばきました。
そのまま、先生は泣きながら、静かに手話で話し始めました。
A君を抱き抱えて先生のところにお父さんがやってきたこと、そして、A君の命は助かったが、もう二度と耳が聞こえないこと。
そして、次の先生の言葉にA君は衝撃を受けたんです。
それは・・・
「君は、不思議に思わなかったかい?君が物心ついた時には手話を使えていたことを」
その時に、A君はハッとしました。
「確かに、手話を習った覚えがない、なぜ使えるんだろう・・・」
A君が耳が聞こえなくなったことで悲しんだ父親は、先生に向かってこう尋ねたそうです。
「声と同じように僕が手話を使えば、この子は普通の生活を送れますか?」
先生は父親に、「それができたら普通の子と同じように知能を付けられるかも知れないが、健常者が手話を普通の会話並みに使えるようにするには数年かかる。スグに使えるようにするのは不可能に近い」
そのように伝えました。
その言葉を聞いた父親は、仕事を捨ててA君のために手話の勉強をし、A君は父親のすがたから自然と手話を覚えていたのでした。
そのことを先生に聞かされたA君は、
「父さんは誰よりも俺の苦しみを知っていた」
「父さんは誰よりも俺の悲しみを知っていた」
「父さんは誰よりも俺の幸せを願っていた」
そのことに気付かされて涙が止まらなかったそうです。
そしてA君は成長し、就職して、お仏壇の前で父親と会話をします。
そして、このお話の最後の言葉が、
「父さん、天国の母さん、そして先生。ありがとう。今、俺は幸せだよ」
【浄土真宗の救い】手話の話が教えてくれる私を見捨てない仏様
この「手話」を読むたびに、私を救うために、私に代わって修行された阿弥陀さまの御心を感じずにはおれません。
私に努力を求めるのではなく、私に変わってご修行くださり、私の救いをすべて成し遂げてくださったのが阿弥陀さまという仏様です。
そのような阿弥陀さまの御心に抱かれて、ありがとうの気持ちが湧いて出てくる。
そんな境界を恵まれている証拠が、私たちの口からこぼれている六字のお言葉、なんまんだぶ。なんまんだぶ。
お互いに南無阿弥陀仏が出てくる尊い今を大切に過ごさせていただきましょう。
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