【仏教の言葉】励ますよりも大切なこと。寄り添うという行動の尊さ

2400年前と現在も変わらない身近な方や他者を失う悲しみ

浄土真宗とは、『仏説無量寿経』という経典を根本とされた教えであります。

そこには、阿弥陀如来のお救いが説かれております。

そして、阿弥陀如来が放っておけなかった私のすがたが説かれております。

その内容は、2500年前に説かれたと思えないほど今を生きる私たちが共感できる内容ばかりでありました。

私たちの人生にも活きると思うのでここでシェア致します。

ある時は室家の父子・兄弟・夫婦、ひとりは死しひとりは生きて、たがひにあひ哀愍し、恩愛思慕して憂念〔身心を〕結縛す、心意痛着してたがひにあひ顧恋す。日を窮め歳を卒へて、解けやむことあることなし。道徳を教語すれども心開明せず、恩好を思想して情欲を離れず。

あるときは、一家の親子・兄弟・夫婦などのうちで、一方が死に一方が残されることになり、互いに別れを悲しみ、切ない思いで慕いあって愁いに沈み、心を痛め思いをつのらせます。
そうして長い年月を経ても相手へのおもいがやまず、仏の教えを説き聞かせてもやはり心が開かれず、昔の恩愛や交流を懐かしみ、いつまでもその思いにとらわれて離れることがありません。

ご遺族の気持ちはわからない。相手が大切なら励まそうとしない

決して遺族の抱える苦悩は第三者にはわかりません。

しかし、人との関わり合いの中で、「相手の気持ちがわかった」ように感じることがあるかも知れません。

その瞬間に相手を傷つけている場面がほとんどです。

なぜならば、相手の気持ちを「決めつけ」たり「思い込んだり」していることに過ぎないからです。

「愛する人を亡くしたのだから、悲しくてしょうがない」

そのような決めつけは、「自分ならこう思う」といった、「自分」という余計なフィルターを通しているのに過ぎません。

相手を励ます気持ちは、主語を考えれば相手を大切にしていない

落ち込んでいる人を見たとき、「元気になって欲しい」という心が生じてきたり、誰かを助けようと動くことができるのが、人の美しさだと思います。

誰かを勇気づけているすがたを見た時に、心が温まるような気持ちになることもありますよね。

それはそれで素敵なことだと思います。

しかし、そのような時に「本当は放っておいて欲しい」という相手の気持ちを無視してしまっていることがあります。

「悲しい気持ちを抑えるのもう限界!誰かに聞いて欲しい!」

そのような相手の気持ちを無視してしまっていることもあります。

「あの人に元気になって欲しい!」

そう思う心はとっても大切だと思いますが、「相手の気持ちを中心」に行動しているかしっかり考えたいところであります。

相手の気持ちを最も大切にしたら、おそらく、励まそうなんて気持ちは生じないでしょう。

相手の気持ちを大切にしよう。大切に聞かせていただこうという心が芽生えるのではないでしょうか?

「相手を励まそう」という心自体が自分中心の心になってしまっていないかしっかり見極めなければなりません。

そのようなことを説かれているのが、最初にあげた『仏説無量寿経』の言葉であります。

相手の気持ちをわかった気にならずにただ寄り添うだけの大切さ

『仏説無量寿経』には、次のように説かれております。

日を窮め歳を卒へて、解けやむことあることなし。道徳を教語すれども心開明せず、恩好を思想して情欲を離れず。

「時間が解決してくれる」という言葉をよく聞くことがあります。

確かに、時の経過とともに気持ちが落ち着くこともあります。

しかし、どれほど時間が経っても解決しない場合もあります。

時の経過とともに、より深くなっていく人間の苦悩もあります。

そのような時に何を言われても体に入ってきません。

ただつらいだけです。

だからこそ、ただそばにいる。ただ気持ちを受け取る。

そのような寄り添いが大切なのではないでしょうか?

いつも私を支えてくれている阿弥陀如来のように、余計なことを言わずに、ただ相手を中心に、相手の気持ちを大切にできるような人生を送れたら素敵なことだと思います。

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