南無阿弥陀仏を聞くことは仏の心を聞くこと
「南無阿弥陀仏」を聞くことは「南無阿弥陀仏」と聞こえていること。
それが普通の考え方ですよね。
しかし、「南無阿弥陀仏」は阿弥陀如来の心そのままを賜ることと同じです。
本願寺の前門様の著書のなかで、お念仏が「そうでもあるまい 」と聞こえてくる方の言葉を紹介されております。
以前、自分の口からこぼれるお念仏が「そうでもあるまい 」と聞こえるといわれた方がありました。自分が世界の中心であるかのように思い上がっているときは、この「そうでもあるまい 」はかなり厳しく聞こえ、自分など生きていてもしょうがないと落ち込んでいるときは、「そうでもあるまい 」は優しく聞こえてくる。そして、そのどちらにも温かい響きがあるのだと。
『いまを生かされて』より引用
阿弥陀如来のお慈悲の中で生きることは、時に厳しく、そして優しい仏様のお心を感じることなのだと思い知らされます。
実際に、お念仏の声が「そうでもあるまい 」と聞こえてきたら尊いことですよね。
思い上がっている時の「そうでもあるまい 」
これは僕自身への戒めのつぶやきです。
自分が世界の中心のように思い上がっている時、自分の存在が大きくなってしまっております。
自分が大きくなったら、他の人を小さくみてしまうのが人間の悲しい性です。
そうなってしまうと、人に支えられて育ってきたことへの感謝の気持ちは湧いてきません。
人は誰もが人と人の関わりによって育てられてきました。
決して自分だけが大きな存在ではないでしょう。
阿弥陀如来が私に「そのまま救う」と仰ったのは、「私がこのままでは救われない」からです。
気付いたら自己中心に自分を大きくしてしまう。
「一人で生きていける」と思い込んでしまう。
そんな私に「そうでもあるまい 、そうでもあるまい 」。
「思い上がってないか?」「本当にお前は素晴らしい人間なのか?」という御心のままに南無阿弥陀仏となってはたらき続けておられます。
だからと言って、阿弥陀如来は私に罪を告げたり貶すことはしません。
救われ難い私であっても「そのまま救う」と仰ってくれております。
だからこそ、僕自身、お念仏称えながら悲しくなることがあるんです。
落ち込んでいる時の「そうでもあるまい 」
誰もが人生に行き詰まったことがあると思います。
そんな時に、「お前は決して孤独じゃない」と私といつも一緒なのが阿弥陀如来です。
辛い時、悲しい時、南無阿弥陀仏を称えさせていただきましょうよ。
南無阿弥陀仏の仏様はいつもご一緒です。
そして、南無阿弥陀仏の仏様が私の命を明るく照らしてくださいます。
いずれ死を迎えないといけない命ですが、終えていくしかない命に意味を見出してくださったのが南無阿弥陀仏の仏様でした。
滅びの命ではなく往生させていただく命を賜った今、「そうでもあるまい 」のお念仏をよりどころに生きさせていただきましょう。
お念仏はよろこびとかなしみを知らせてくれる
思い上がっている時も、落ち込んでいる時も、南無阿弥陀仏は「そうでもあるまい」の心で私たちに届いております。
生きている限り、苦難から避けることはできません。そして、落ち込むこともあります。
そんな私達だからこそ放っておかないのが阿弥陀如来のお誓いであります。
だからこそよろこびの心が湧いてきます。
お念仏を聞かせていただく人生は「そうでもあるまい」と、よろこびとかなしみを同時に感じさせていただく人生です。
南無阿弥陀仏を聞ける、「そうでもあるまい」を聞ける人生をともに歩ませていただきましょう。
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