葬儀の時に浄土真宗の僧侶は様々なお経を読経しております。
すべてのお経に阿弥陀如来という仏さまの救いが説かれておりますので、読経を通して僧侶自身も阿弥陀如来のお救いを讃えさせていただいているんですね。
実は、読経の中に浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が詠まれた和歌もあります。
その和歌の内容が、いつ命を終えていくかわからない私達の生き方も教えてくれているように感じることがあります。
そこで、この記事では、親鸞聖人の詠まれた和歌の内容をお伝えします。
この記事を読むことによって、愛する方との今生での別れの悲しさがラクになればいいなと思っているところであります。
浄土真宗の葬儀では仏様の絶対の救いを聞きます
管理人のえいかいが初めてお葬式でお勤めさせていただいたのは高校生の時でした。
まだ9歳の何もわかっていないような時にお坊さんの資格をいただいて、お経の意味もわからずにお勤めしていたのを今になって失礼に感じます。
その頃にお付き合いいただいてたご遺族の皆様、申し訳ありません。
その頃は、お葬式の時に「なんでこんなたくさんのお経をお勤めするんだろう・・・」とばかり思っていました。
そして勉強を進めるにつれて「あの時に勉強しとけばもっとよかったのに!」という感情が強くなってきました。
葬儀のお勤めの途中にこのような親鸞聖人のお言葉が出てまいります。
本願力にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし
阿弥陀如来のお救いのはたらきに遇ったなら、人生をただ空しく終えてしまうことはありません。まるで海のように広大な南無阿弥陀仏の功徳の前では、私たちの煩悩は何の障りにもなりません。
葬儀での読経は、私たちが故人さまにお経を捧げているのではありません。
そして、葬儀のご縁を、
「阿弥陀如来のおはたらきのおかげで空しく終わっていく人生じゃなくてよかったね。阿弥陀如来がいてくれるから安心だね」
そう言葉をかけるのだと理解すれば、一見スッキリしそうです。
葬儀は故人様へのメッセージではなく、故人様からのメッセージ?
「故人様のために」という想いで葬儀に参列される方が非常に多いです。
命を終えられた方に対しても感謝の心を持つ人間の美しい心だと思います。
だからこそ、葬儀のご縁を故人様へメッセージを伝える場ではなく、故人様からのメッセージを受け取る場として捉えていただければと思います。
葬儀のご縁を通して、
「決して空しく終わらせないっていう阿弥陀如来のおはたらきに出遇うことができたんだ!えいかいも、この素晴らしい阿弥陀如来のみ教えを聞いておくれよ!」
そう受け取らせていただくことで本当に故人の命の終わりを無駄にしないご縁になります。
故人さまがいたからこそ、亡くなったおじいちゃんやおばあちゃんがいたからこそ、今、当たり前のようにお念仏を称える私がいます。
葬儀で故人からのメッセージを大切に、故人様への「ありがとう」を大切にしたいものです。
親鸞聖人は「遇う」という漢字で仏様からのはたらきを示されました
お葬式のお話ばかりになってきてしまいましたね。
親鸞聖人は「あひぬれば」の「あう」という字を、日常生活ではあまり見かけることのない字の意味で使用されているんです。
「遇」という字で「たまたま」という読み方がされ、「思いがけない」という意味があるんです。
それでは、「何が思いがけないこと」なのでしょうか?
それは、今、当たり前のように阿弥陀如来のお話を聞き、当たり前のように南無阿弥陀仏を称えながら生きているこの私のすがたそのものです。
浄土真宗のみ教えを聞かせていただくほどに、本当の私のすがたが思い知らされます。
今は、こうしてお坊さんの服装をして皆様の前に立ってお話をしていますが、私が阿弥陀如来のお救いを讃えるなんて本来ならば有り得ないことです。
今では阿弥陀如来のことが大好きなんですけどね。
元々、お寺で生まれ育ったにも関わらず、阿弥陀如来のお話を聞こうとしない、お念仏なんて称えようともしない、そんな性根を抱えて生きてきたのがこの私でした。
阿弥陀如来と反対の方向に向かっていくことが私の性根でした。
それがいつの間にやら阿弥陀如来のお救い間違い無いという心をいただき、普通に南無阿弥陀仏を称えながら生きているんです。
本当にあり得ないことですよね。
決して、私が阿弥陀如来のお話を聞こう聞こう!と必死に求めたのではなく、阿弥陀如来が私をお育てくださったことを教えてくれるのが浄土真宗です。
【偶然と必然】仏の心が教えてくれる出会いの尊さ
私からすれば出遇いは求めてもいないことです。
つまり「思いがけない」事態です。なので偶然です。
しかし、「私を救う」という願いのままにおはたらきくださる阿弥陀如来から見れば必然です。
今こうして阿弥陀如来のお話を聞いていることも、お念仏を称えていることも、すべてが阿弥陀如来のおはたらきです。
浄土真宗では、今、すでに阿弥陀如来に抱かれていた私であることを教えてくれます。
決して阿弥陀如来は私と遠い場所におられる方ではありません。
苦しみ悩みながら日々を過ごしている今、私たちとご一緒くださる阿弥陀如来です。
念仏を通して味わえる絶対のよりどころである仏様の救い
浄土真宗では、一緒にお念仏を唱えることをお勧めいたします。
お念仏そのものが阿弥陀如来の救いでありますし、阿弥陀如来がご一緒の証拠でもあります。
実は、阿弥陀如来は、お浄土っていう仏様の世界でジッとしているような方ではありません。
「命終えるその時に救ってあげる」という仏様でもありません。
今を生きる私たちを「抱いて抱えて浄土に連れていく」って、私たちのもとにやってきて、私たちとご一緒くださるのが阿弥陀如来です。
だからこそ、本当の、確かなよりどころになってくださります。
親鸞聖人は、
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことある
ことなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします
というお言葉を残されました。
この世界にあるものは全て移り変わり、いずれ無くなってしまいます。
そして、私の心で作り出すものに「まこと」は一つもないんです。
コロコロ移り変わる私の心で作り出すものに変わることのない「まこと」があるはずありませんよね。
「まこと」なのは賜りものであるお念仏だけです。
南無阿弥陀仏となってはたらき続けておられる阿弥陀如来のおはたらきだけは決して無くなることはありませんからね。
確かなよりどころとなってくださる阿弥陀如来のお救いに出遇わせていただいたならばどうなるのでしょうか?
親鸞聖人は「むなしくすぐるひとぞなき」と示されました。
【むなしくすぐるひとぞなき】本当の人生の意味とは?
「むなしい」という漢字はたくさんありますが、ここでのむなしいは空っぽという意味で「空しい」という漢字の意味です。
決して空っぽの人生を歩んでいる人は一人もいません。
すべての方が、色々な方との出会いがあり、今を生きています。
でも、せっかく人間として尊い命をいただいても、阿弥陀如来のおはたらきに出遇わなければお浄土に参ることはできません。
そのことを「空しい人生」と示されております。
みなさまにとっての人生の意味は何でしょうか?
人によっては、お金に苦しんで、お金が溜まっても
本願寺派八代目宗主の蓮如上人は、
生きている間、お金や名誉や地位に悩み、求める心が止まることはありません。
その人間の願いに限りはありませんので、たとえ手に入れても、「もっと欲しい」「もっと欲しい」と、無意識に気付けばむさぼり続ける生涯を送ります。
「もっと自由な生活がしたい」「もっと幸せになりたい」
あるいは、「あらゆるものを求めても、人間の心は満足しない。それよりも、平凡な毎日を送りたい」
そう考える方がいらっしゃるかもしれません。
でも考えてみますと、いつ病気にかかるか、いつ愛する人と別れていくかわからない世の中で、普通の平凡な人生を送ることこそ、本当に難しいことではないでしょうか。
そうして、時が来ればいのちを終えていかなくてはなりません。
それでは、私たちは何で生きているのでしょうか?
その答えを与えてくれたのが私にとっては浄土真宗というみ教えでした。
阿弥陀如来のおはたらきに出遇わせていただいたからこそ空しくない。
確かなよりどころのある人生が本当の幸せな人生ですよね。
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