仏になって還るまでお誓いになられた阿弥陀如来
僕は浄土真宗の勉強を始めた頃、「お浄土っていう仏様の世界に生まれたら目標の達成でしょ?」とずっと勘違いしておりました。
ずっとそう思っておりましたが、実はそうではありませんでした。
親鸞聖人は次のような言葉を残されております。
つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり
ここでは、
「浄土真宗というみ教えは、阿弥陀如来のおはたらきによってお浄土に生まれさせていただき、阿弥陀如来のおはたらきによってこの世界に還らせていただくんだよ」
という意味が含まれております。
親鸞聖人は「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり」とお示しになられております。
「二種の回向」という難しそうな言葉が出てまいりました。
「回」=めぐらすこと
「向」=差し向けること
ですので、「回向」とは自らが積み上げた功徳を他人にめぐらし差し向けることを言います。
法事などで、「追善回向」という言葉を聞いたことはないでしょうか?
「追善回向」ですと、命を終えても救われていない故人に向かって「善を追って回向する」ということであります。
しかし、浄土真宗では、阿弥陀如来のおはたらきによって必ずお浄土へ参らせていただきますので、「追善回向」はありません。
回向とは、本来は修行者が他に功徳を「めぐらし差し向けること」でありますが、浄土真宗では回向の主体は修行者ではありません。
浄土真宗での回向の主体は阿弥陀如来です。
阿弥陀如来が私たちにはたらき続けるすがたを「回向」と言います。
それにしても、ここで「二種の回向」と言われているのはどのような理由なのでしょうか。
自由自在に救済できる仏に成らせていただける
親鸞聖人は続けて「一つには往相、二つには還相なり」と示されております。
「往相」とは「お浄土に生まれるありさま」ということであり、「還相」とは「お浄土から還ってくるありさま」ということであります。
つまり、阿弥陀如来のおはたらきによってお浄土に生まれさせていただく「往相」だけではなく、この世界に還ってくる「還相」まで阿弥陀如来のおはたらきなのであります。
阿弥陀如来が誓われた四十八願のうち、二十二番目に次のように誓われております。
たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になったとき、他の仏がたの国の菩薩たちが、わたしの国に生れてきたならば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至らせよう。それぞれの希望によって、自由自在に人々を導くためにかたい決意に身を包んで、多くの功徳を積み、すべてのものを救い、仏がたの国に行って菩薩の行を修め、すべての世界の仏がたを供養し、数限りない人々を導いてこの上ないさとりを得させることも自由にできる。すなわち、通常に超えすぐれて菩薩の徳をすべてそなえ、大いなる慈悲の行を実践できる。もしそうでなければ、わたしは決してさとりを開くことはありません
お浄土に生まれて終わりではなく、お浄土に生まれたならば、即座に仏のさとりをひらいて阿弥陀如来のお誓いの通りに、あらゆる方々を救う救済活動をさせていただきます。
「救済活動」といえば、何やら大変な活動を想像されそうでありますが、決して苦しい活動ではないでしょう。
それだけではなく、救済させていただくことがこの上ない楽しみになっていくのでしょう。
還相回向こそ阿弥陀如来のお救いのご本意
『教行証文類』には次のように示されております。
「利他」とは「他を利する」ということでありますので、阿弥陀如来が私たちを救うはたらきのことであります。
そして、その阿弥陀如来のおはたらきのご本意は「還相の利益」と示されております。
つまり、阿弥陀如来とはただ単にあらゆる方々をお浄土に生まれさせるという目標だけを見据えた仏さまではありません。あらゆるいのちをそのままお浄土に導き、この世界に還らせていただく還相回向まで先に誓われております。
また、『教行証文類』でも往相回向について示される箇所よりも、還相回向について示される箇所が4倍も多い分量であることから、還相回向こそが阿弥陀如来のお救いのご本意であったといえるでしょう。
すべての出会いが大切だと教えてくれる
無意識に、「自分にとって役に立つ人」と「自分の人生の邪魔をする人」という風に人を分別して生きてしまいます。
そのように分別する心はそのまま、「自分にとって都合のいい存在を善き人と判断していく自己中心的」な判断と言わざるを得ないでしょう。
しかし、還相回向という言葉がすべての出会いの尊さを教えてくれます。
『浄土和讃』に次のように詠まれております。
阿難・目連・富楼那・韋提
達多・闍王・頻婆娑羅
耆婆・月光・行雨等
大聖おのおのもろともに
凡愚底下のつみびとを
逆悪もらさぬ誓願に
方便引入せしめけり
一首目の和讃で「王舎城の悲劇」に登場された方々の名前を列挙され、それぞれの方々は、実は私自身を阿弥陀如来のお救いに引き入れるための方々であったことを二首目の和讃に示されております。
「王舎城の悲劇」では、すべての方々が自己中心な心によって裏切り合うというつらく悲しい人間の有り様が示されておりました。
その中でも、特に阿弥陀如来のみ教えを説かなければならないと思われた夫人に向かって法を説かれたのが『仏説観無量寿経』でありました。
ここでは凡夫として、人間として、苦しみ悩む夫人が教えを授かる対象でありましたが、親鸞聖人は「王舎城の悲劇」に登場するすべての方が、自分自身をみ教えに引き入れる方であったと讃えられております。
このように、仏法を中心として、この世界に生きているすべての方が還相の方であったと捉えられる心の領域を賜った時、本当にすべての出会いが尊く感じられるのではないでしょうか。
そして、その還相の方に出会わせていただいたのは阿弥陀如来のおはたらき以外にありません。
それゆえ、還相回向と言われているのであります。
親鸞聖人は次のように詠まれました。
往相・還相ふたつなり
これらの回向によりてこそ
心行ともにえしむなれ
今、私が南無阿弥陀仏を賜る人生を歩んでいることそのものが、阿弥陀如来の往相回向、還相回向のはたらきによるものであります。
阿弥陀如来によって護られ、還相の方々に支えられている人生を歩んでいる現実を、南無阿弥陀仏を通して知らせていただくことであります。
救う主語は阿弥陀如来。救われる主語は私。
親鸞聖人は「往相の回向について真実の教行信証あり」という言葉をお伝えくださりました。
『仏説無量寿経』のみ教え
行
阿弥陀如来によって選択された南無阿弥陀仏という行
信
阿弥陀如来のお誓いの通りに疑いなく信じる
証
阿弥陀如来のお誓いの通りにお浄土に生まれる
つまり、自己中心な想いに支配され、情に振り回されるように生きている私たちが、『仏説無量寿経』に説かれているままに、阿弥陀如来のお誓いを疑いなく信じ、念仏を称える者に育て上げられ、お浄土に生まれていく有り様そのものを往相といい、それは阿弥陀如来のおはたらきに他ならないから往相回向と言われるのであります。
すべてをご用意くださり、お救いくださり、還相の活動をさせていただける。
それほどの心を賜っている現実を味わう日々を送らせていただきましょう。
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