読経の最初の部分で仏様のはたらきそのものが讃えられております

浄土真宗で最も親しまれているお経

みなさまは、「正信念仏偈」というお経をお勤めしたことがあるでしょうか。

おそらく、浄土真宗のお経の中でも、最も親しまれているお経であります。

その冒頭は、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」であります。

「この二句は阿弥陀如来のことなんだよ」

そのように先生に教わってきました。

その度に、「だったら、阿弥陀如来、南無阿弥陀仏でいいじゃん!」と思っていたのはここだけの話です。笑

この二句を味わっていくうちに、「阿弥陀如来って、本当にすごい仏さまなんだなぁ」って思うことができたので味わってまいります。

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」は南無阿弥陀仏の意訳です

「帰命、南無」は私たちの信心をあらわす

「帰命、南無」はともに「お任せする」という意味であります。

とは言っても、私が阿弥陀如来に「救ってください」とお願いする意味ではありません。

阿弥陀如来が「かならず救う」と私たちにはたらき続けておられるので、その阿弥陀如来のお救いに「お救いになってください」とお任せする意味であります。

阿弥陀如来にお任せするのですが、「正信念仏偈」ではどう示されているのでしょうか?

「無量寿如来、不可思議光」にお任せすると示されていますね。

いつまでもご一緒の「無量寿如来」の仏様

「無量寿如来」は、言葉の意味そのままで「量るのは無理なほどの寿の仏様」ということであります。

つまり、「いつまでも」の仏様であります。

私たちが生きている世界に、何一つとして「いつまでも」続くものはありません。

すべてが移り変わってゆきますし、私たちの命もかならず終える時がやってきます。

楽しい時間も「いつまでも」続かないですよね。

みんなが楽しく笑い合える生活を送っていても、震災一つですべてがバラバラになってしまう。

私たちの生きている世界は、いつ何が起きるかわからない本当に不安な世の中であることを思わされます。

この世界でたった一つだけ、決して変わらず、決して失うことのないものが阿弥陀如来です。

「いつまでも」私にかかりっきりの阿弥陀如来をあらわす「無量寿如来」という言葉は、本当に尊いものだと思わされます。

どこまでもご一緒の「不可思議光」の仏様

「不可思議光」も文字の通りの意味であります。

「思議」することのできない。思いはかることのできない光の仏様ということであります。

阿弥陀如来とは、色もなくすがたもなく、私たちを救うというはたらきそのものであります。

南無阿弥陀仏となって私たちを喚びかけ続けておられ、光となって私たちを照らし続けておられます。

親鸞聖人は「不可思議光仏」について、次のように示されております。

この如来は光明なり、光明は智慧なり、智慧はひかりのかたちなり。智慧またかたちなければ不可思議光仏と申すなり。

阿弥陀如来は智慧の光となって、私たちが迷うことのないように「どこまでも」照らし続けておられます。

それにしても、「阿弥陀如来とは光そのもの」という親鸞聖人のお示しに、「阿弥陀如来はどこまでも私たちと離れることのない仏さまである」というよろこびを感じずにはおれません。

物体や音などは、かならず存在のしない場所があります。

しかし、光の至り届いていない場所はありません。

阿弥陀如来は光となって、ただ外から私を照らしておられるだけではなく、真っ暗な煩悩を突き破って、私の中に満ち満ちてくださります。

阿弥陀如来の光明は、智慧のはたらきそのものです

僕は授業で「智慧」って言葉が出るたびに「難しいなぁ」と思っておりました。

それもそのはず。わたしたちが日常的に使っている言葉とは全く意味が違っております。

私たちが努力して身に付けることができるのは「知恵」であり「知識」です。

それと「智慧」とは全く違ったものであります。

「智慧」は煩悩ばかり抱えている私からは絶対に出てきません。

物事を正しく判断することはできません。

気付いたら自分中心に物事を判断し、他者を傷つけて生きてしまいます。

どうしようもない私であると反省することはありましても、またすぐに忘れて自己中心に振る舞う私です。

そんな私だったと本当に知らされるのは、仏様のおはたらき以外にありません。

私の知恵ではなく、阿弥陀如来の智慧が私のところで成立しているからこそ、本当に愚かな私のすがたが知らされていきます。

自分と他人を区別してしか考えることができなかった小さな私であったと知らされていきます。

そうして私を照らし続けておられるのが阿弥陀如来の光でした。

私を照らし続ける阿弥陀如来の智慧の光そのものが、私を支えてくださる慈悲のはたらきであります。

阿弥陀如来の智慧は慈悲のはたらきとなってくださります。

私の迷いを破る智慧のはたらきは、私を見捨てない慈悲のはたらきであります。

そのような阿弥陀如来の智慧と慈悲が欠け目なく備わり、私に至り届いているすがたが南無阿弥陀仏であります。

南無阿弥陀仏が出てくる「今」は、阿弥陀如来のお救いが私に届いている「今」

南無阿弥陀仏と称えることが大切なのではなく、南無阿弥陀仏を称えていることが大切なのだと思わされます。

南無阿弥陀仏が出てくるということは、阿弥陀如来のおはたらきが間違いなく私に至り届き、私に充満しているすがたそのものです。

「無量寿如来、不可思議光」という「いつまでも続く限りない命と、どこまでも届く限りない光」の阿弥陀如来のおはたらきが至り届いていることを、南無阿弥陀仏のお念仏が出てくる今を通してよろこばせていただきましょう。