
浄土真宗とは、『仏説無量寿経』という経典を根本とされた教えです。
そこには、阿弥陀如来のお救いが説かれております。
そして、阿弥陀如来が放っておけなかった私のすがたが説かれております。
その内容は、2500年前に説かれたと思えないほど今を生きる私たちが共感できる内容ばかりでありました。
横に非常の水火・盗賊・怨家・債主のために焚かれ、漂され、劫奪せられ、消散し磨滅せば、憂毒々として解くる時あることなし。憤りを心中に結びて、憂悩を離れず。心堅く意固く、まさに縦捨することなし。
思いがけない水害や火災や盗難などにあい、あるいは恨みを持つものや借りのある相手などに奪い取られ、たちまちそれらがなくなってしまうと、激しい憂いを生じて取り乱し、心の落ち着くときがありません。
怒りを胸にいだいていつまでも悩み続け、心を固く閉して気の晴れることがありません。
あらゆるものをいつまでも持っておくことはできない。
今回の言葉では物について説かれているようでありますが、人間の命においても同じことです。
すべての物は生滅変化しますので、移り変わっていずれ無くなってしまいます。
それを仏教では「無常」と表現します。
【無常】あらゆるものは生滅変化すると知らされても受け入れられない
「無常」ということを強く実感するのは、愛する方との別れではないでしょうか。
「いつまでも一緒にいようね!」
そう思い、幸せな生活を送っていたとしても、ご縁一つで別れなければならないのが本当のすがたであります。
「有常」ではなく「無常」であります。
「常に同じものは無いのです」
いのちだけではなく、あらゆるものは一定ではなく、絶えず変化し続けております。
それにも関らず、地位や財産、人間関係、そしていのちは「いつまでもあるんだ!」と思い、願いつつ人生を歩みます。
しかし、すべてのものは「無常」でありますので、必ず失う時がやってきます。
それを認めきれずに悩み苦しむ私のすがたを、「苦」と言います。
頭で「無常」と知らされても、いざ自分が「無常」なことが起こった時、悩み苦しみが止まることはありません。
目の前が真っ暗になり、塞ぎ込んでしまうこともあるでしょう。
そのような「苦」から、決して離れることができないのです。
しかし、「無常」であることはマイナスなことだけなのでしょうか?
無常はマイナスな感情だけではなく、希望を与えてくれる言葉です
「無常」というのはマイナスな感情だけを表現した言葉ではありません。
たとえ私がどのような状況になっても、
どのような悩みを抱えていても、
「それがいつまでも続くものではありません」
「常は無い」からこそ、状況をよくするために「もっと頑張ってみよう」という元気を与えてくれます。
それも「無常」を知ることだと思います。
仏教は、前を向いて歩く元気を与えてくれるみ教えであることを、今回もまた知らせていただきました。