
命の終わりは必ず訪れます。命の行方を考えておきましょう
浄土真宗とは、『仏説無量寿経』という経典が根本であるみ教えです。
そこには、阿弥陀如来のお救いが説かれております。
そして、阿弥陀如来が放っておけなかった私のすがたが説かれております。
その内容は、2500年前に説かれたと思えないほど今を生きる私たちが共感できる内容ばかりでありました。
善悪変化して、殃福処を異にし、あらかじめ厳しく待ちてまさに独り趣入すべし。遠く他所に到りぬればよく見るものなし。善悪自然にして行を追うて生ずるところなり。窈々冥々として別離久しく長し。道路同じからずして会ひ見ること期なし。はなはだ難く、はなはだ難ければ、またあひ値ふことを得んや。
善い行いをしたものは楽しい世界に生れ、悪い行いをしたものは苦しい世界に生れるというように、おのおのその行く先が異なっており、厳然とした因果の道理によって、あらかじめ定められているところにただひとり生れて行くのであります。
そして遠く別の世界に行ってしまえば、もうめぐりあうことはできません。
それぞれ善悪の行いにしたがって生れて行くのであります。
行く先は遠くてよく見えず、永久に別れ別れとなり、行く道が同じではないからまず出会うことはありません。
ふたたび会うことなど、まことに難しい限りであります。
私たちの命の行方について考えさせていただける言葉であります。
生きることばかりに心奪われて、必ず訪れる命の終わりについて考えないのは勿体無い人生です。
命の終わりを意識するからこそ、生がより充実するという価値観もあるので大切にしたいものです。
今ページでは、そのような命の行方について考えていきます。
死をご縁に「さようなら」と離れ離れにならなくてはならない
「全員が同じ世界に生まれることができる」
私の行いによって行き先が決まる本来の仏道ならば、そんなことは決してありません。
この世界でどんなに分かり合える友人だったとしても、愛し合った方々でさえも、いのちの終わりというご縁によって、引き離されてしまいます。
そして、もう二度と会うことはありません。
人間世界では、遠く離れてしまい、連絡手段さえなくなってしまっても、命がけで探してら会えるかも知れません。
しかし、いのちが終えた後の世界では探す当てすらありません。
それは、誰かが死ぬ時に、ただむなしく、
「さようなら」
と告げるだけのいのちの価値観であります。
あまりにも寂しい価値観だと思うのは私だけでしょうか?
浄土真宗のみ教えを聞かせていただくと、いのちの終わりはただの別れではなかったことを知らされます。
浄土真宗を聞く人生、では死は別れのご縁ではありません
本来ならば、別れ離れにならなければならないいのちでした。
しかし、そのいのちをすべて救いとろうとはたらき通しなのが阿弥陀如来であります。
愛する方との別れに際し、
「同じ阿弥陀如来のお浄土で会わせていただきましょう!」
阿弥陀如来に出遇わせていただいたならば、そのように、合掌しながら人間世界での別れを遂げることができます。
そして実は、いのちを終えて、お浄土に生まれ、仏のいのちを賜り、この人間世界にまた還らせていただくところまで阿弥陀如来によって誓われております。
今度は、亡き方が縁となり、私が阿弥陀如来のお救いを聞かせていただけます。
決して「さようなら」ではありませんね。
「これからもよろしくお願いします」
最後にそう言えるほどの価値観を与えてくれているんですね。