【浄土真宗】「何をしても救う」ではなく「救わない」とお誓いの親心

阿弥陀如来は「自由気ままに生きていい」と誓われていない事実

「好き勝手に行動しても救われる!」

そのようなイメージが広がっているように感じることがあります。

確かに、信心決定した上での、生活は定められておりません。

ただ阿弥陀如来のお救いを間違いなしという想いから、阿弥陀如来へお礼申し上げるお念仏の日々を送らせていただくばかりであります。

確かに、阿弥陀如来はすくいに条件を付けておられませんし、浄土真宗に厳しい戒律はありません。

しかし、厳しい戒律で身を縛られない方が、人間にとっては厳しいのではないでしょうか?

身を縛られなかったら自由ですから、どうしても自分に甘くなってしまいます。

それでも、「自分に厳しく頑張って生きていくんだ!」と思われる方もおられるかも知れませんが、気付いたら、自分にとってラクな方向に進んでいくのが私たちの性根ではないでしょうか。

そんな私にとって、浄土真宗というみ教えはとても厳しいものだと感じます。

だって、縛られないからこそ、自分の悲しさが知らされてきますよ。

実は、阿弥陀如来は「誰でも救うよ」「何をしても救うよ」とは、直接的には誓われておりません。

阿弥陀如来のご本意の願いであるご本願には、次のように誓われております。

「もし私が仏となるとき、あらゆる人々が心から信じよろこび、往生間違いないという想いにより、少なくとも10回念仏して、そしてわたしの国に生まれることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただ、五逆の罪を犯したり、正法を謗るものだけは除かれます」

この、「ただ、五逆の罪を犯したり、正法を謗るものだけは除かれます」という部分は「抑止門」と言われております。

抑止門によって、阿弥陀如来は私のつくる罪を抑止されています。

親鸞聖人は「唯除というのは、私の作る罪の大きさを知らせ、心をひるがえさせて、漏らさず救おう」という阿弥陀如来の御心であることを示されました。

「救わない」という阿弥陀如来のお誓いには、「そんなあなただから放っておけない」という阿弥陀如来の親心があると言えるでしょう。

そんな阿弥陀如来の御心を、私はコンビニで立ち読みをしている時に感じさせていただきました。

【ある日のコンビニ】放っておけない親心を知らされる

コンビニで立ち読みしていると、レジの前で子どもがお菓子を持って来て、母親に「これ買って、これ買って」とねだっていました。

母親は「ダメ」と最初は優しく言っていたのですが、子どもの「これ買って」の声が大きくなってくると、母親も大きな声で「ダメ、何回言ったらわかるん!」と言いました。

そのまま買い物も終わったのですが、子どもは母親に「これ買って」とねだり続けました。

すると母親は、「もう知らん!」と言って、店を出てしまったのです。

それでも、子どもはどうしても諦められない感じでレジの前で止まっていたのですが、しばらく経つとお菓子を元の場所に戻して外に出ました。

私は、「そうなるよな〜」と他人事で立ち読みをしていたのですが、その後、母親は笑顔でコンビニに戻り、子どもの欲しがっていたお菓子を買って外に出ました。

実は、子どもがお菓子を諦めて外に出る様子を、母親は外からずっと見ていたんですね。

子どもがお菓子を棚に戻したのを知った上で、あえて子どもに買い与える。私は、この一部始終を見た時、あたたかな親心に心が和む想いがしました。

それとともに、「阿弥陀如来の抑止の心は、こういうことなんだろうな〜」と、漫画を立ち読みしながら密かに感じたことです。

「唯除」と誓われるほど、「すくわない」と言わねばならない程に罪を重ねて生きている私だと知らせておられる阿弥陀如来です。

その本心は、そのような私だから最も放っておけない。

抱いて抱えて浄土に導かずにおれない。

そんな阿弥陀如来の親心に抱かれている現実のままに、お念仏の生活を送らせていただくばかりです。

本当は、浄土真宗は私にとってきびしい「唯除」のお誓い。

その御心はとてもあたたかい。ということを味わう一つのご縁でありました。

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