【往き易いのに少ない】信心一つで阿弥陀如来の浄土にたどり着きます

阿弥陀如来のお浄土は生まれやすいけど生まれる方は少ないという矛盾

浄土真宗とは、『仏説無量寿経』という経典を根本とされた教えです。

そこには、阿弥陀如来のお救いが説かれております。

そして、阿弥陀如来が放っておけなかった私のすがたが説かれております。

その内容は、2500年前に説かれたと思えないほど今を生きる私たちが共感できる内容ばかりでありました。

〔安養国は〕往き易くして人なし。その国逆違せず、自然の牽くところなり。なんぞ世事を棄てて勤行して道徳を求めざらん。極長の生を獲て、寿の楽しみ極まりあることなかるべし。

無量寿仏の国は往生しやすいにもかかわらず、往く人があまりおられません。しかしその国は、間違いなく仏の願いのままにすべての人々を受け入れてくださる。人々は、なぜ世俗のことをふり捨てて、つとめてさとりの功徳を求めようとしないのか。求めたなら、限りない命を得て、いつまでもきわまりない楽しみが得られるのです。

阿弥陀如来のおはたらきによってお浄土に生まれさせていただくのですから、とっても生まれやすいはずです。

しかし、疑い深い私の心によって、阿弥陀如来のお救いをそのまま聞くことができません。

「かならずたすける」という阿弥陀如来のお心をそのまま受け取ればいいのに、「しっかりお願いしないといけない」という余計なはからいが付きまといます。

お願いしないとダメという教育で育ってきてますから、それも致し方ないことなのかも知れません。

また、無意識に、「私の心が安心すること」を条件にしてしまうのでしょう。

コロコロ変わる私の心なんか、条件にもなりませんし、何の当てにもなりませんよね。

それも私のはからいであります。

阿弥陀如来の「かならずたすける」というお誓いであっても、私が余計なはからいを間に挟む限り、お浄土に生まれることはできません。

生まれ難い人間に生まれたのに信心決定しないのは空しい人生です

浄土真宗八代目宗主の蓮如様は、次のようなお手紙を残されております。

「易往無人の章」

しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは、まことに五戒をた
もてる功力によりてなり。これおほきにまれなることぞかし。
(中略)
これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。そもそも、その信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて正行に帰するをもつて本意とす。
(中略)
あら、こころえやすの安心や、また、あら、往きやすの浄土や。これによりて『大経』(下)には、「易往而無人」とこれを説かれたり。この文のこころは、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。
(以下略)

ここで、人としてのいのちを授かることは本当に稀なことであるので、阿弥陀如来より信心を賜り、お浄土へ参らせていただくべきことを示されております。

また、才能や学問、財が恵まれていようと貧しかろうと、生きている間にどのような行いを起こしていようと、性別も関係ないことが示されております。

これは、阿弥陀如来のお救いに区別がないことを示されております。

私たちは性別や年齢、あるいは肩書きで人を区別し、上下関係を作って人間生活を営みます。

しかし、阿弥陀如来のお救いのもとでは何の区別もありません。

人間が無意識に起こす「区別」という概念すらありません。

生き様も関係なく、すべての方が平等であります。

余計なはからいをせずに、ただ阿弥陀如来のお救いをそのまま聞かせていただく信心一つで救われてゆきます。

それにしても、蓮如様の安心しきっている様子が伝わってくるお手紙ですね。

「あら、こころえやすの安心」「あら、往きやすの浄土や」

蓮如様は次のような言葉を、同じお手紙の中に示されております。

あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。

「あら」とは、感動を表す言葉であります。

はからいを混えず、ただ聞かせていただくだけ。

「やすきこころ」であり、いただく私からすれば「ありがたきこころ」ですね。

生まれやすきお浄土を賜る安心の人生をともに歩ませていただきましょう!

浄土真宗の勉強ができる素敵な書物を紹介します