
現代でも実感できる『仏説無量寿経』の言葉を紹介します
浄土真宗は『仏説無量寿経』という経典を根本にされたみ教えです。
そこには、阿弥陀如来のお救いが説かれております。
そして、阿弥陀如来が放っておけなかった私のすがたが説かれております。
その内容は、2500年前に説かれたと思えないほど今を生きる私たちが共感できる内容ばかりでありました。
そこには次のように説かれている箇所があります。
尊卑・上下・貧富・貴賤、勤苦怱務しておのおの殺毒を懐く。悪気窈冥にしてためにみだりに事を興す。天地に違逆し、人心に従はず。
身分の高いものも低いものも、富めるものも貧しいものも、みなともにあくせくと世渡りのために苦しんでおります。そして各自が毒を含んだ恐ろしい思いをいだき、外にはその思いを見せないで、みだりに悪事を犯すのであります。これは世の道理に背き、人の道にもはずれた行いであります。
粗探しばかりするのが人間だから自然と八方美人になってしまう世の中
みなさまは、自分の愚かさをひたすら見つめてみたことはあるでしょうか?
研修などで、そのような経験をされたことがある方がおられるかも知れません。
経験されたことがある方はご存知のことでありますが、自分自身の愚かなところを見つめるのはとても苦しいことです。
それを、「自分と向き合う」といいます。
自分と向き合った時に、あることに気づくかと思われます。
それは、日常生活の中で「自分と向き合う」ことをせずに、「他人の粗探し」ばかりしているのが自分であったという、本当のすがたです。
他人を恨み、他人を妬み、他人を傷付けながら生きているのが人間のすがたです。
それでも、他人にいいように思われたいのが人間のすがたです。
だから、周囲にいい顔をして生きている人に対して、「八方美人」という言葉を使って非難することがあります。
でも冷静に考えてみてください。
無意識に周囲の方々の目ばかりを気にして生きている私たちは、全員が八方美人ではないでしょうか?
心の中で思っていることを外に出さず、周囲にいい顔ばかりして生きているのですから、お互いに「生きづらい世の中」を作っているのだと知らされます。
八方美人をやめて、自分と向き合って知らされた愚かな私のすがたを恥じずに、力強く歩む人生を送れたらどんなに素晴らしいことでしょう。
「賢者としての偽った生き方」よりも、「愚者としての本当の生き方」
浄土真宗の開祖である親鸞聖人がお書きになられた『愚禿鈔』という書物の冒頭に、次のように示されております。
賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。
愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。
親鸞聖人がお師匠の法然聖人と出遇い、法然聖人を讃えるとともに、ご自身の愚かさを恥じておられる言葉であります。
私は、この言葉から、法然聖人との出遇いに対する強いよろこびを感じずにはおれません。
また、この言葉は現代を生きる私たちの「生き方」の指針となっております。
周囲の方に認めてもらうような生き方を送ることも大切だと思いますが、心の奥底ではいつも人の粗探しをして、自分中心にしか生きられないのは悲しいことだと言わねばなりません。
それとは反対に、考えていることや思っていることを、周囲の目を気にしないで言う自由気ままな生き方をしていても、心の中では相手のことを思いやれるのは素晴らしいことだと思います。
そのような素晴らしい生き方を与えてくれるのが、浄土真宗というみ教えです。
浄土真宗というみ教えを聞かせていただいても、愚かな私のすがたは何も変わりません。
しかし、他人の粗探しをするのではなく、他人とともによろこんでいく心が育まれます。
「ただ一緒にみ教えをよろこんでいきましょう」という、「人に認めてもらう」とか「八方美人」という視点を超えた生き方を与えてくれます。
偽った自分のすがたばかりを見せる疲れる生き方ではなく、浄土真宗のみ教えを聞かせていただき、もっと自由に生きさせていただきましょう!!