
『仏説無量寿経』に説かれた阿弥陀如来の救いの目当てである私のすがた
浄土真宗は『仏説無量寿経』という経典が根本の教えであります。
『仏説無量寿経』には私たちを放っておかない阿弥陀如来の救いと、阿弥陀如来が放っておけなかった私のすがたが説かれております。
約2500年前に説かれているのですが、今を生きる私たちが共感できる内容が多くて驚かせていただきました。
みなさまの役に立つ可能性もありますので、ここで掲載します。
その五つの悪とは、世間の人民、徙倚懈惰にして、あへて善をなし身を治め業を修せずして、家室眷属、飢寒困苦す。
(中略)
取与に節なくして、衆ともに患へ厭ふ。恩に負き義に違して報償の心あることなし。貧窮困乏にしてまた得ることあたはず。辜較縦奪してほしいままに遊散す。しばしばいたづらに得るに串ひて、もつてみづから賑給す。酒に耽り、美きを嗜みて、飲食、度なし。心をほしいままに蕩逸して魯扈牴突す。
人の情を識らず、しひて抑制せんと欲ふ。人の善あるを見て、憎嫉してこれを悪む。義なく礼なくして〔わが身を〕顧み難るところなし。
(中略)
愚痴矇昧にしてみづから智慧ありと以うて、生の従来するところ、死の趣向するところを知らず。仁ならず、順ならず、天地に悪逆してそのなかにおいて僥倖を望し、長生を求めんと欲すれども、かならずまさに死に帰すべし。
第五の悪とは次のようであります。
世間の人々は、おこたりなまけてばかりいて、善い行いをし、身をつつしみ、自分の仕事に励もうとはいっこうにせず、一家は飢えと寒さに困りはてます。
(中略)
物のやりとりにしまりがなくて、多くの人々に迷惑をかけ、恩義を忘れ、報いる心がありません。そのためますます貧困に陥って、取り返しのつかないようになります。そこで、自分の得だけを考えて、他人のものまで奪い取り、好き放題に使ってしまいます。それが習慣となって、ひとり贅沢な生活をし、むやみに美食を好み美酒にふけるのです。そうして勝手気ままに振舞い、自分の愚かさは省みずに人と衝突します。
相手の気持ちを考えることなく、無理に人を押さえつけようとし、人が善いことをするのを見てはねたんで憎み、義理もなければ礼儀もなく、わが身を省みず、人にはばかるところがありません。
(中略)
道理が分らず愚かでありながら、自分は智慧があると思っているのであって人がどこからこの世に生れてきたか、死ねばどこへ行くかということを知らないのです。また思いやりに欠け、人のいうことにも耳を貸しません。このように道にはずれたものでありながら、得られるはずもない幸福を望み、長生きしたいと思っています。しかし、やがては必ず死ぬのです。
「自分さえ」「自分だけ」という生き方は自分を不幸にします
「自分さえ楽しければいいんだ!」
そう思っていないようでも、気付いたら、「自分さえ」という世界を作ってしまっていたことを恥ずかしく思うことがあります。
数人で仕事をしていても、「今はちょっと手を抜いても大丈夫」と当たり前のように思います。
自分が手を抜いたら、他の方に負担がかかる可能性があるのにも関わらず、「自分さえ」という自己中心の心によってそのことが見えてきません。
『仏説無量寿経』には次のように説かれております。
自分の利益ばかりを考えて、時には他人のものまで奪い取って好き放題に使ってしまいます。
それも習慣化されてしまい、贅沢な生活に溺れてしまいます。
自分だけが美味しい食事を食べて、美味しいお酒を飲み、贅沢が止まることはありません。
そうして自由気ままに生き、自分の愚かさには目を向けず、人と衝突してしまうことがあります。
このようなことが『仏説無量寿経』に説かれているのですが、現実社会で、人間は、一度落ちてしまうと、なかなか戻ることはできません。
よほどの律した環境と、本人の努力が必要です。
そして、何より大切なことは、誰もが環境次第で堕落してしまうことがあります。
「自分さえ楽しければいいんだ」という生き方が、いかに自分を苦しめる結果を生んでいくか『仏説無量寿経』の言葉によって知らされるところであります。
「自分さえ」ではなく「相手の気持ち」を大切にする生き方
『仏説無量寿経』には次のように説かれております。
「自分さえ」という生き方は、「相手の気持ちを考える」という心を失った生き方であります。
それどころか、自分の利益のために相手を抑制し、相手が善い行いをしているにも関わらずねたんだり憎しんだりしてしまいます。
自分のことだけを考えておりますので、他の方への礼儀もなく、自分の行動を反省する心すら持ち合わせておりません。
ただ自分の欲望だけを振り回して生きてしまう人のすがたを示されております。
そして、私自身も、このような生き方をしているんだなぁと恥ずかしく、悲しい思いがします。
「相手の気持ちを大切にする」という心を失ってしまっては、人間同士の関係は成り立ちません。
形だけの関係はかろうじて成り立つかもしれませんが、それではお互いに成長はないでしょう。
形だけの関係を続け、お互いに「情」が無いなら、ロボットと同じです。
私たちは、ロボットとは違います。
「相手の気持ちを大切にする」ことができるという、尊いいのちを賜ったのが人間です。
相手の気持ちはわかりませんが、「わかろうとすることはできる」ことを大切に生きていきたいものです。
自分だけではなく皆が同じ阿弥陀如来の救いの中を生きる
「周囲の方々とともに」
その気持ちが、自分自身を幸せにしてくれるのではないでしょうか?
やっぱり一人で笑うよりも、他人と笑う方が楽しいですよね。
一人でよろこぶよりも、みんなで分かち合う方が楽しいですよね。
浄土真宗は、そのような気持ちを与えてくれます。
「私だけではなく、全員が阿弥陀如来のお救いの中だったんだね!」
そうやって、みんなでよろこび、みんなでお救いを仰ぐ価値観を与えてくれます。
「自分さえ」という殻を破ってくれる浄土真宗のみ教えを聞かせていただく生涯を、ともに送らせていただきましょう。