
2500年前も今も人間の心に変化はないのかも知れません
浄土真宗とは、『仏説無量寿経』という経典を根本とした宗派です。
そこには、阿弥陀如来のお救いが説かれております。
そして、阿弥陀如来が放っておけなかった私のすがたが説かれております。
その内容は、2500年前に説かれたとは思えないほど今を生きる私たちが共感できる内容ばかりでありました。
何かの学びにもなる可能性がありますので掲載いたします。
その一つの悪とは、諸天・人民、蠕動の類、衆悪をなさんと欲へり、みなしからざるはなし。強きものは弱きを伏し、うたたあひ剋賊し、残害殺戮してたがひにあひ呑噬す。
(中略)
人よくなかにおいて一心に意を制し、身を端しくし行ひを正しくして、独りもろもろの善をなして衆悪をなさざれば、身独り度脱して、その福徳・度世・上天・泥の道を獲ん。これを一つの大善とす
第一の悪とは次のようであります。
天人や人々をはじめ小さな虫のたぐいに至るまで、すべてのものはいろいろな悪を犯しているのであって、強いものは弱いものをしいたげ、互いに傷つけあい殺しあっております。
(中略)
このような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるのであります。これを第一の大善といいます。
【殺生】すべての生き物は、互いに傷つけ合いながら存続してきました
生き物すべてが「殺生」という悪を犯してきました。
「食物連鎖」の「生態ピラミッド」を学校で学んだことがある方が多いと思われます。
私は、「生態ピラミッド」を学校で教えていただいた時に、生きていくためには他の生き物のいのちを奪わないといけないという事実を知らされました。
それとともに、思い知らされたことがあります。
それは、人間も同じ生き物なのに、「生態ピラミッド」には入らず、すべての生き物を食べていることです。
基本的には強い生き物が弱い生き物のいのちを奪うという「弱肉強食の世界」でありますが、人間だけはすべてを自由に食べたり、研究によって調整することができます。
また、本能のままに動くのではなく、思考できる人間だからこそ、「殺生」していることをどう捉えるのか考えることができるのです。
「殺生しているのは私」という事実と向き合う生涯を生きる
みなさまは、「殺生」していることに罪の意識を感じたことはありますか?
私は一度もありません!!
眠っている時に蚊が飛んでいたら、反射的に手を出してしまいます。
お腹が減っている時に食事を見たら、生き物への感謝もなく貪るように食べてしまいます。
でも、冷静に考えてみたら、他の生き物に対してとても残酷なことをしていますよね。
私たちは、何かを食べないと生きていけません。
つまり、「殺生」しないと生きていけません。
「自分が生きていくためには仕方がない」
それも事実ではありますが、自分勝手な考えですよね。
「ご飯を食べる時には、すべての生き物のいのちに感謝しましょう」
日本では、そのように学んでいることが多いと思います。
いのちの尊さを知らされる大切な考え方だと思いますが、これも人間中心とした自分勝手な後付けですよね。
「殺生」しないと生きていけないですし、「感謝」の気持ちを忘れないことも大切ですが、なにより大切なことは、日常では忘れている「私が殺生している」という意識を持って生きることではないでしょうか?
殺生していることが当たり前になって忘れがちだからこそ、忘れないように生きることが大切だと思います。
命そのものと、すべての命への救いに感謝させていただく
本願寺派三代目宗主の覚如様がお書きになられた『口伝鈔』という書物に、必ずお坊さんの格好をして食事をされた親鸞聖人のお言葉が掲載されております。
しかれども、末法濁世の今の時の衆生、無戒のときなれば、たもつものもなく破するものもなし。これによりて剃髪染衣のそのすがた、ただ世俗の群類にこころおなじきがゆゑに、これらを食す。とても食するほどならば、かの生類をして解脱せしむるやうにこそありたく候へ。
しかるにわれ名字を釈氏にかるといへども、こころ俗塵に染みて智もなく徳もなし。なにによりてかかの有情をすくふべきや。
これによりて袈裟はこれ、三世の諸仏〔の〕解脱幢相の霊服なり。これを着用しながらかれを食せば、袈裟の徳用をもつて済生利物の願念をやはたすと存じて、これを着しながらかれを食するものなり。
冥衆の照覧を仰ぎて人倫の所見をはばからざること、かつは無慚無愧のはなはだしきに似たり。
しかれども、所存かくのごとし
生き物を食べる時に、「その生き物が救われてゆくように」という想いを抱いておられたことが強く伝わってきます。
「殺生する罪」を感じる中で、「阿弥陀如来のお救いの尊さ」を仰ぐ人生が、浄土真宗のみ教えを聞かせていただくものの人生であることを知らされるところであります。