
浄土真宗というみ教えでは、阿弥陀如来のお救いを聞かせていただきます。
阿弥陀如来のお救いを説かれた経典の中でも、「救われ難い私を救う」ための阿弥陀如来のお誓いが説かれている『仏説無量寿経』こそが真実の経典であると親鸞聖人は示されました。
『仏説無量寿経』の中では、私たちの本当のすがたを説かれている箇所があります。
その箇所を味わいますと、まるで今を生きている私たちをご覧になっているようで、本当に悲しく恥ずかしい思いにさせていただくところであります。
人と比べて内省しても、それは真実ではありません。
しかし、仏さまが説かれた私のすがたですから、間違いのない真実であります。
「原文」、「書き下し文」、「現代語訳」から味わっていきたく思っております。
【原文】漢文だからこそ正確に味わうことができます
無量寿国声聞菩薩功徳智慧不可称説又其国土微妙安楽清浄若此何不力為善念道之自然著於無上下洞達無辺際宜各勤精進努力自求之必得超絶去往生安養国横截五悪趣悪趣自然閉昇道無窮極易往而無人其国不逆違自然之所牽何不棄世事勤行求道徳可獲極長生寿楽無有極然世人薄俗共諍不急之事於此劇悪極苦之中勤身営務以自給済無尊無卑無貧無富少長男女共憂銭財有無同然憂思適等屏営愁苦累念積慮為心走使無有安時有田憂田有宅憂宅牛馬六畜奴婢銭財衣食什物復共憂之重思累息憂念愁怖横為非常水火盗賊怨家債主焚漂劫奪消散磨滅憂毒無有解時結憤心中不離憂悩心堅意固適無縦捨或坐摧砕身亡命終棄捐之去莫誰随者尊貴豪富亦有斯患憂懼万端勤苦若此結衆寒熱与痛共居貧窮下劣困乏常無無田亦憂欲有田無宅亦憂欲有宅無牛馬六畜奴婢銭財衣食什物亦憂欲有之適有一復少一有是少是思有斉等適欲具有便復糜散如是憂苦当復求索不能時得思想無益身心倶労坐起不安憂念相随勤苦若此亦結衆寒熱与痛共居或時坐之終身夭命不肯為善行道進徳寿終身死当独遠去有所趣向善悪之道莫能知者世間人民父子兄弟夫婦家室中外親属当相敬愛無相憎嫉有無相通無得貪惜言色常和莫相違戻或時心諍有所恚怒今世恨意微相憎嫉後世転劇至成大怨所以者何世間之事更相患害雖不即時応急相破然含毒畜怒結憤精神自然剋識不得相離皆当対生更相報復人在世間愛欲之中独生独死独去独来当行至趣苦楽之地身自当之無有代者善悪変化殃福異処宿予厳待当独趣入遠到他所莫能見者善悪自然追行所生窈窈冥冥別離久長道路不同会見無期甚難甚難復得相値何不棄衆事各曼強健時努力勤修善精進願度世可得極長生如何不求道安所須待欲何楽哉如是世人不信作善得善為道得道不信人死更生恵施得福善悪之事都不信之謂之不然終無有是但坐此故且自見之更相瞻視先後同然転相承受父余教令先人祖父素不為善不識道徳身愚神闇心塞意閉死生之趣善悪之道自不能見無有語者吉凶禍福競各作之無一怪也生死常道転相嗣立或父哭子或子哭父兄弟夫婦更相哭泣顛倒上下無常根本皆当過去不可常保教語開導信之者少是以生死流転無有休止如此之人矇冥抵突不信経法心無遠慮各欲快意痴惑於愛欲不達於道徳迷没於瞋怒貪狼於財色坐之不得道当更悪趣苦生死無窮已哀哉甚可傷或時室家父子兄弟夫婦一死一生更相哀愍恩愛思慕憂念結縛心意痛著迭相顧恋窮日卒歳無有解已教語道徳心不開明思想恩好不離情欲昏矇閉塞愚惑所覆不能深思熟計心自端正専精行道決断世事便旋至竟年寿終尽不能得道無可奈何総猥擾皆貪愛欲惑道者衆悟之者寡世間怱怱無可頼尊卑上下貧富貴賤勤苦怱務各懐殺毒悪気窈冥為妄興事違逆天地不従人心自然非悪先随与之恣聴所為待其罪極其寿未尽便頓奪之下入悪道累世勤苦展転其中数千億劫無有出期痛不可言甚可哀愍
【書き下し文】現代語訳よりも本当の意味を理解しやすいです
無量寿国の声聞・菩薩の功徳・智慧は、称説すべからず。またその国土は、微妙安楽にして清浄なることかくのごとし。なんぞつとめて善をなして、道の自然なるを念じて、上下なく洞達して辺際なきことを著さざらん。よろしくおのおのつとめて精進して、つとめてみづからこれを求むべし。
かならず〔迷ひの世界を〕超絶して去つることを得て安養国に往生して、横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉ぢ、道に昇るに窮極なからん。
〔安養国は〕往き易くして人なし。その国逆違せず、自然の牽くところなり。なんぞ世事を棄てて勤行して道徳を求めざらん。極長の生を獲て、寿の楽しみ極まりあることなかるべし。
しかるに世の人、薄俗にしてともに不急の事を諍ふ。この劇悪極苦のなかにして、身の営務を勤めてもつてみづから給済す。尊となく卑となく、貧となく富となく、少長・男女ともに銭財を憂ふ。有無同然にして、憂思まさに等し。屏営として愁苦し、念を累ね、慮りを積みて、〔欲〕心のために走り使はれて、安き時あることなし。
田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ。牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、またともにこれを憂ふ。思を重ね息を累みて、憂念愁怖す。
横に非常の水火・盗賊・怨家・債主のために焚かれ、漂され、劫奪せられ、消散し磨滅せば、憂毒々として解くる時あることなし。憤りを心中に結びて、憂悩を離れず。心堅く意固く、まさに縦捨することなし。
あるいは摧砕によりて身亡び命終れば、これを棄捐して去るに、たれも随ふものなし。尊貴・豪富もまたこの患へあり。
憂懼万端にして、勤苦することかくのごとし。もろもろの寒熱を結びて痛みとともに居す。
貧窮・下劣のものは、困乏してつねに無けたり。田なければ、また憂へて田あらんことを欲ふ。宅なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ。牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食・什物なければまた憂へてこれあらんことを欲ふ。
たまたま一つあればまた一つ少け、これあればこれを少く。斉等にあらんと思ふ。たまたまつぶさにあらんと欲へば、すなはちまた糜散す。かくのごとく憂苦してまさにまた求索すれども、時に得ることあたはず。思想するも益なく、身心ともに労れて、坐起安からず、憂念あひ随ひて勤苦することかくのごとし。またもろもろの寒熱を結びて痛みとともに居す。
ある時はこれによつて身を終へ、命を夭ぼす。あへて善をなし道を行じて徳に進まず。寿終り、身死してまさに独り遠く去るべし。趣向するところあれども、善悪の道よく知るものなし。
世間の人民、父子・兄弟・夫婦・家室・中外の親属、まさにあひ敬愛してあひ憎嫉することなかるべし。有無あひ通じて貪惜を得ることなく、言色つねに和してあひ違戻することなかれ。
ある時は心諍ひて恚怒するところあり。今世の恨みの意は微しきあひ憎嫉すれども、後世にはうたた劇しくして大きなる怨となるに至る。ゆゑはいかんとなれば、世間の事たがひにあひ患害す。即時に急にあひ破すべからずといへども、しかも毒を含み怒りを畜へて憤りを精神に結び、自然に剋識してあひ離るることを得ず。みなまさに対生してたがひにあひ報復すべし。
人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る。行に当りて苦楽の地に至り趣く。身みづからこれを当くるに、代るものあることなし。
善悪変化して、殃福処を異にし、あらかじめ厳しく待ちてまさに独り趣入すべし。遠く他所に到りぬればよく見るものなし。
善悪自然にして行を追うて生ずるところなり。窈々冥々として別離久しく長し。道路同じからずして会ひ見ること期なし。はなはだ難く、はなはだ難ければ、またあひ値ふことを得んや。
なんぞ衆事を棄てざらん。おのおの強健の時に曼びて、つとめて善を勤修し精進して度世を願ひ、極長の生を得べし。いかんぞ道を求めざらん。いづくんぞすべからく待つべきところある。なんの楽をか欲するや。
かくのごときの世人、善をなして善を得、道をなして道を得ることを信ぜず。人死してさらに生じ、恵施して福を得ることを信ぜず。善悪の事すべてこれを信ぜずして、これをしからずと謂うてつひに是することあることなし。
ただこれによるがゆゑに、またみづからこれを見る。たがひにあひ瞻視して先後同じくしかなり。うたたあひ承受するに父の余せる教令をもつてす。先人・祖父もとより善をなさず、道徳を識らず、身愚かに神闇く、心塞がり意閉ぢて、死生の趣、善悪の道、みづから見ることあたはず、語るものあることなし。吉凶・禍福、競ひておのおのこれをなすに、ひとりも怪しむものなし。
生死の常の道、うたたあひ嗣ぎて立つ。あるいは父、子に哭し、あるいは子、父に哭す。兄弟・夫婦たがひにあひ哭泣す。顛倒上下することは、無常の根本なり。みなまさに過ぎ去るべく、つねに保つべからず。〔道理を〕教語し開導すれども、これを
信ずるものは少なし。ここをもつて生死流転し、休止することあることなし。
かくのごときの人、矇冥抵突して経法を信ぜず、心に遠き慮りなくして、おのおの意を快くせんと欲へり。愛欲に痴惑せられて道徳を達らず、瞋怒に迷没し財色を貪狼す。これによつて道を得ず、まさに悪趣の苦に更り、生死窮まりやむことなかるべし。哀れなるかな、はなはだ傷むべし。
ある時は室家の父子・兄弟・夫婦、ひとりは死しひとりは生きて、たがひにあひ哀愍し、恩愛思慕して憂念〔身心を〕結縛す、心意痛着してたがひにあひ顧恋す。日を窮め歳を卒へて、解けやむことあることなし。道徳を教語すれども心開明せず、恩好を思想して情欲を離れず。
昏矇閉塞して愚惑に覆はれたり。深く思ひ、つらつら計り、心みづから端正にして専精に道を行じて世事を決断することあたはず。便旋として竟りに至る。年寿終り尽きぬれば、道を得ることあたはず、いかんともすべきことなし。
総猥擾にしてみな愛欲を貪る。道に惑へるものは衆く、これを悟るものは寡なし。世間怱々として頼すべきものなし。尊卑・上下・貧富・貴賤、勤苦怱務しておのおの殺毒を懐く。悪気窈冥にしてためにみだりに事を興す。天地に違逆し、人心に従はず。
自然の非悪、まづ随ひてこれに与し、ほしいままに所為を聴してその罪の極まるを待つ。その寿いまだ尽きざるに、すなはちたちまちにこれを奪ふ。悪道に下り入りて累世に勤苦す。そのなかに展転して数千億劫も出づる期あることなし。痛みいふべからず、はなはだ哀愍すべし」と。
【現代語訳】見慣れた私たちの言葉で味わってみましょう
無量寿仏の国の声聞や菩薩たちの功徳や智慧がすぐれていることは、言葉に表し尽くすことはできません。またその国土が美しくて心安らぎ清らかであることも、すでに述べた通りであります。それなのにどうして人々は、つとめて善い行いをし、この道が仏の願いにかなっていることを信じて、上下の別なくさとりを得、きわまりない功徳を身にそなえようとしないのでしょうか。
それぞれに努め励んで、すすんでこの国に生れようと願いましょう。そうすれば必ずこの世を超え離れて無量寿仏の国に往生し、ただちに輪廻を断ち切って、迷いの世界にもどることなく、この上ないさとりを開くことができます。
無量寿仏の国は往生しやすいにもかかわらず、往く人があまりおられません。しかしその国は、間違いなく仏の願いのままにすべての人々を受け入れてくださる。人々は、なぜ世俗のことをふり捨てて、つとめてさとりの功徳を求めようとしないのか。求めたなら、限りない命を得て、いつまでもきわまりない楽しみが得られるのです。
ところが世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争い、この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと生計を立てているに過ぎません。身分の高いものも低いものも、貧しいものも富めるものも、老若男女を問わず、 みな金銭のことで悩んでおります。それがあろうがなかろうが、憂え悩むことには変りがなく、あれこれと歎き苦しみ、後先のことをいろいろ心配し、いつも欲のために追い回されて、少しも安らかなときがありません。
田があれば田に悩み、家があれば家に悩みます。牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品々に至るまで、あればあるで憂え悩むのです。それらのものについてとにかく心配し、何度もため息をついて嘆き恐れるのであります。
思いがけない水害や火災や盗難などにあい、あるいは恨みを持つものや借りのある相手などに奪い取られ、たちまちそれらがなくなってしまうと、激しい憂いを生じて取り乱し、心の落ち着くときがありません。怒りを胸にいだいていつまでも悩み続け、心を固く閉して気の晴れることがありません。
また災難にあって自分の命を失うようなことがあれば、すべてのものを残してただひとりこの世を去るのであって、何も持っていくことはできません。身分の高いものや富めるものでも、やはりこういう憂いがあります。
その悩みや心配は実にさまざまであります。そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けております。
また、貧しいものや身分の低いものは、いつも物がなくて苦しんでおります。田がなければ田が欲しいと悩み、家がなければ家が欲しいと悩みます。牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品々に至るまで、なければないでまたそれらが欲しいと悩むのであります。
たまたま一つが得られると他の一つが欠け、これがあればあれがないというありさまで、つまりはすべてを取りそろえたいと思っているのです。そうしてやっとこれらのものがみなそろったと思っても、すぐにまた消え失せてしまいます。そこで嘆き悲しんでふたたびそれを求めるのですが、もうそのときには得ることができず、ただ思い悩むばかりで身も心も疲れはて、何をしていても安まることがありません。いつも憂いに沈んで、このように苦しむのであります。そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。
またときには、 そういう苦悩のために命を縮めて死んでしまうことさえあります。善い行いをせず、修行して功徳を得ようともしないで寿命が尽きて死んだなら、ただひとり遠く去っていかなくてはなりません。行いに応じていく先は決っているのですが、その善悪因果の道理をよく知るものはひとりもいないのであります。
世間の人々は、親子・兄弟・夫婦などの家族や親類縁者など、互いに敬い親しみあって、憎みねたんではなりません。また持ちものは互いに融通しあって、むさぼり惜しんではなりません。そしていつも言葉や表情を和らげて、逆らい背きあってはなりません。
争いを起して怒りの心が生じることがあれば、この世ではわずかの憎しみやねたみであっても、後の世にはしだいにそれが激しくなり、ついには大きな恨みとなってしまいます。なぜならこの世では、人が互いに傷つけあうと、たとえその場ではすぐ大事に至らないにしても、悪意をいだき怒りをたくわえ、その憤りがおのずから心の中に刻みつけられて恨みを離れることができず、後にはまたともに同じ世界に生れて対立し、かわるがわる報復しあうことになるからであります。
人は世間の情にとらわれて生活しているのですが、結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのであります。すなわち、それぞれの行いによって苦しい世界や楽しい世界に生れていくのであります。すべては自分自身がそれにあたるのであって、だれも代ってくれるものはいません。
善い行いをしたものは楽しい世界に生れ、悪い行いをしたものは苦しい世界に生れるというように、おのおのその行く先が異なっており、厳然とした因果の道理によって、あらかじめ定められているところにただひとり生れて行くのであります。そして遠く別の世界に行ってしまえば、もうめぐりあうことはできません。
それぞれ善悪の行いにしたがって生れて行くのであります。行く先は遠くてよく見えず、永久に別れ別れとなり、行く道が同じではないからまず出会うことはない。 ふたたび会うことなど、まことに難しい限りであります。
それなのにどうして人々は世間の雑事をふり捨てないのか。各自が元気なうちにつとめて善い行いをし、ただひたすら迷いの世界を捨てて無量寿仏の国に生れたいと願うなら、限りない命が得られるのである。どうしてさとりを求めないのだろうか。何を期待しているのだろうか。いったいどういう楽しみを望んでいるのでしょう。
このような世間の人々は、 善い行いをして善い結果を得ることや、 仏道を修めてさとりを得ることを信じません。人が死ねば次の世に生れ変ることや、人に恵み施せば福が得られることを信じません。善悪因果の道理をまったく信じず、そのようなことはないと思い、あくまで認めようとしません。
このように因果の道理を信じないから、自分の誤った見方にとらわれ、またそれをかわるがわる見習って、先のものも後のものも同じように誤るのです。そして、子は親の教えた誤った考えを次々に受け継いでいくのであります。もともと親もまたその親も、善い行いをせず、さとりの徳を知らず、身も心も愚かであり、かたくなであって、自分でこの生死・善悪の道理を知ることができず、またそれを語り聞かせるものもありません。善いことが起きるのも悪いことが起きるのも、すべて次々に自分が招いているのに、だれひとりそれはなぜかと考えるものもありません。
生れ変り死に変りして絶えることのないのが世の常であります。あるいは親が子を亡くして泣き、あるいは子が親を失って泣き、兄弟夫婦も互いに死に別れて泣きあいます。老いたものから死ぬこともあれば、逆に若いものから死ぬこともあります。これが無常の道理なのです。すべてははかなく過ぎ去るのであって、いつまでもそのままでいることはできません。この道理を説いて導いても、信じるものは少ない。そのためいつまでも生れ変り死に変りして、とどまるときがないのであります。
こういう人々は、心が愚かでありかたくなであって、仏の教えを信じず、後の世のことを考えず、各自がただ目先の快楽を追うばかりであります。欲望にとらわれてさとりの道に入ろうとせず、怒りにくるい、財欲と色欲をむさぼることは、まるで餓えた狼のようであります。そのためにさとりが得られず、ふたたび迷いの世界に生れて苦しみ、いつまでも生れ変り死に変りし続けるのです。何という哀れな痛ましいことなのでしょう。
あるときは、一家の親子・兄弟・夫婦などのうちで、一方が死に一方が残されることになり、互いに別れを悲しみ、切ない思いで慕いあって愁いに沈み、心を痛め思いをつのらせます。そうして長い年月を経ても相手へのおもいがやまず、仏の教えを説き聞かせてもやはり心が開かれず、昔の恩愛や交流を懐かしみ、いつまでもその思いにとらわれて離れることがありません。
心は暗く閉じふさがり、愚かに迷っているばかりで、落ちついて深く考え、心を正しくととのえてさとりの道に励み、世俗のことを断ち切ることができません。こうしてうかうかしているうちに一生が過ぎ、寿命が尽きてしまうと、もはやさとりを得ることができず、どうすることもできません。
世の中すべてが濁り乱れており、みな欲望をむさぼって、迷うものが多く、さとるものが少ないのであります。まことに世間はあわただしくて、何一つ頼りにすべきものがありません。
それにもかかわらず、身分の高いものも低いものも、富めるものも貧しいものも、みなともにあくせくと世渡りのために苦しんでおります。そして各自が毒を含んだ恐ろしい思いをいだき、外にはその思いを見せないで、みだりに悪事を犯すのであります。これは世の道理に背き、人の道にもはずれた行いであります。
このような人々は、これまでの悪い行いが必ず悪い縁となって、またほしいままに悪い行いを重ねるのであります。ついにその罪が行きつくところまで行くと、定まった寿命が尽きないうちに、とつぜん命を奪われて苦しみの世界に落ち、繰り返しその世界に生れ変り死に変りして、何千億劫もの長い間、浮かび出ることができない。その痛ましさはとうてい言葉にいい表せない。実に哀れむべきことであります。