浄土真宗という教えでは阿弥陀如来という仏様のお救いを聞かせていただきます。
阿弥陀如来はあらゆる命をすくいとるために四十八の願を建てられ、御修行によって成就されました。
んっ?四十八?
筆者は、この願を「AKB48」と味わっております。決してふざけている訳ではなく「AKB48」がわかりやすい表現だからです。
その意味について今回のブログでは味わってまいります。
このブログを読むことによって「AKB48」という言葉をより尊く感じられることでしょう。
【仏願の生起本末】救われ難い私に届く絶対の救い
おそらく、浄土真宗のお経の中で最も親しまれているのは「正信念仏偈」というお経であります。
その3行目から10行目に、
在世自在王仏所
覩見諸仏浄土因
国土人天之善悪
建立無上殊勝願
超発希有大弘誓
という言葉があります。
この部分は『仏説無量寿経』という親鸞聖人が最も大切にされたお経のお言葉が元になっております。
その『仏説無量寿経』では、ちょっとややこしい言葉ですが、「仏願の生起本末」が説かれているんです。
「仏願の生起本末」
「仏願の生起」
(誓われた理由)
↓
救われ難い私がいたから
「仏願の本末」
(修行と結果)
↓
修行の結果、法蔵菩薩という修行者はさとりを得て、南無阿弥陀仏と響く名となって私たちを救うためにはたらき続けておられる
「仏願の生起」で説かれておりますように、私たちが救われ難くない人間なら、仏願を起こす必要はありませんでした。
いつも罪を作り続けて、どうしても救われ難いこの私がいたからこそ、願いが建てられ、私を救うために修行をして南無阿弥陀仏と響く仏にまでなってくださったんです。
そんな阿弥陀如来の私たちを救うための強い決心が込められているのが、最初に拝読した「正信念仏偈」の3行目から10行目です。
【大切な対話】法蔵菩薩と世自在王仏のやりとり
3、4行目に「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所」と出てまいります。
「阿弥陀如来が修行の位であった法蔵菩薩と名乗られていた時、お師匠の世自在王仏のみもとにて」という意味であります。
そして「都見諸仏浄土因」と続いていくのですが、私は、このシーンから「どうしても私を救いたいんだ!」という阿弥陀如来のお心を感じずにはおれません。
ある日、阿弥陀如来の修行時代である法蔵菩薩が世自在王仏のお説教を聴聞しました。
そのお説教が本当に素晴らしいものだったのでしょう。
説法を聞かれた後、世自在王仏のそばに行き、仏足をおしいただき、 三度右まわりにめぐり、 ひざまずいて合掌して、こう言いました。
「光顔巍巍 威神無極」
「なんと麗しいお顔なのでしょうか」
その内容が、「讃仏偈」として親しまれているお経であります。
そして、「讃仏偈」のちょうど真ん中で、
「一切恐懼 為作大安」
「恐れを抱きながら生きている人々に、安心を与えたい」
とお誓いになり、最後に、
「仮令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔」
「たとえどんなに苦しい修行が必要であっても、耐え忍び、決して後悔することはありません」
と、法蔵菩薩はすべての命を救いとる強い決意を表明し、世自在王仏にこう言われたんです。
法蔵菩薩
「世自在王仏様、どうか私のために教えを説いてはくれませんか?私はあなたの仰せの通りに修行し、あらゆる仏様の作られたお浄土の、勝れたところだけを選び取り、未だかつてないほど清らかな国土を作りたいのです。どうか、私に、この世で速やかにさとりを開かせ、すべてのいのちの苦しみのもとを除かせてください」
世自在王仏
「どういう修行をすれば、清らかなお浄土をつくることができるかは、そなた自身で知るであろう」
法蔵菩薩
「いいえ、それはひろくふかく、とても私に知ることはできません。どうか私のために、あらゆる仏さまのそれぞれのお浄土を作るための修行をお説きになってください。私はそのお説きの通りに修行し、私の願いをかならず果たし遂げます!!」
こう仰せられた法蔵菩薩の強い決心を感じた世自在王仏は、法蔵菩薩に教えをお説きになられました。
そして続けて、
世自在王仏
「もしも、この限りなく広く深い海の水を、すべて、たった一人でお酒を飲む升で汲み取ろうとしたら、他の者は笑うかもしれない。しかし、果てしない時間をかければ、いずれ底まで汲み干し、海底にある珍しい宝を手に入れることができるであろう。決してあきらめずにさとりを求めるならば、必ず果たし遂げることができるであろう。どのような願いであっても、果たし遂げられないものはないであろう」
海水を汲み上げるほどの想像を超えた救い
世自在王仏は海水をすべて汲み上げるという不可能に近いほどの喩えを出されました。
海水をすべて汲み上げるのは、一般的には馬鹿げているようなお話です。
しかし、それほどまでに法蔵菩薩の決心は固かったのでしょう。
それでも、何も動じることのない法蔵菩薩の姿を見て世自在王仏は、二百十億という考えることすらできない数の仏さまのそれぞれのお浄土に住んでいる方々の、善いところ悪いところ、優れているところ劣っているところをお説きになられました。
私が師匠として尊敬している布教使の方が教えてくれたお話であります。
ある布教使さんが、法座の席で先ほど私が話していたような「二百十億の国を見そなわしてすべての命を救うことを成し遂げたのが阿弥陀如来です」というお話をされたそうです。
すると、それを聞いていた方が、急に席を立ってこう仰せになったそうです。
「そんな夢物語のお話をされても信じられるか!」
そう言われた布教使さんは、相手の言ったことを何一つ否定せず、こう仰せになったそうです。
「あなたの言う通りかも知れません。しかし、あなたを救いたい仏様のお話であっても無視できるんですか?」
浄土真宗というみ教えは、決して他人事の救いを聞くのではありません。
私を救うことを何より本意とされているのが阿弥陀如来であります。
自分事の救いを聞かせていただきます。
法蔵菩薩の見られた二百十億の国土とは、あらゆる世界のあらゆる人々をすべて見られたということであります。
それは、私とは別の人のことを言っているのではありません。
むしろ、二百十億という膨大な数ですが、それほどまでに心変わりする私の姿をご覧になったのでしょう。
普段、人前で笑顔を見せているけど、本当は心の奥底に深い寂しさを抱えている私の心を見たのかも知れない。
誰にも気持ちを受け止めてもらえずに苦しんでいる私の心を見たのかも知れない。
愛する人と別れて、家に帰って食べる一人のご飯がやけに冷たく感じる私の心を見たのかも知れない。
誰もが違う生き方をしています。
一人ひとりの抱える悲しみや苦しみは決して第三者に理解することはできません。
それぞれの方が、それぞれの方の抱える苦しみの中で、精一杯人生を過ごしています。
そんな私達一人ひとりの心をすべて見るように、すべての方を救いとりたいという願いをお建てになられたのが阿弥陀如来です。
AKB48。あなたを必ず仏にする四十八の願い
そんな私の姿をご覧になり、私に向かって「あなたをかならず仏にする48の願い」を建てられました。
その四十八の願いのすべてに「あなたを救えないなら、私は阿弥陀と名乗りません」と誓われております。
自分が救われたから相手を救う
それがごく一般的な話かも知れません。
しかし、阿弥陀如来は私への救いが先立っているんです。
阿弥陀如来のお救いはどこまでも私中心です。
決して他人事ではありません。
「頑張れ」ではなく「そのまま」だから救われる
『仏説無量寿経』というお経には、
「お前はこんなにも罪深いんだ!」
「救われたいならもっと頑張れよ!」
「お前を救うのにこんなに苦労した!」
ということはほとんど述べられておりません。
何を述べられているか?
「そのまま救う」ということです。
人間の世界では、まず相手の悪いところを言って、相手に頑張るように進めて、それでも頑張ってくれずに救ったなら自分の苦労話を他の人に言うでしょう。
阿弥陀如来はそうではありませんでした。
そんな私の姿をご覧になり、「私をそのまま救う」という誓いの通りに願いを建てられ、今、南無阿弥陀仏の仏さまとして私たち一人ひとりとご一緒に歩んでくださっているのでありました。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏