
浄土真宗のお寺にお参りに行くと、様々な先生から様々なお話を聞かせていただけます。
お参りにお伺いして、「今回の先生はどんな話でした?」とお伺いすると、基本的には話の内容には触れられずに「いい話やった〜」、「面白い話やった〜」という言葉を聞くことが多いです。
浄土真宗のお寺にお参りに行くと、阿弥陀如来という仏様の救いを聞かせていただけるのは大前提として、講師の先生によって様々な色合いのお話を聞けて、学びと有難さがありますよ。
そこで、この記事では、浄土真宗の法話の内容についてお知らせ致します。
この記事を読むことによって、本当の私達の心のよりどころの存在が明確になるでしょう。そして、浄土真宗のお寺にお参りに行こうと思う気持ちが湧いてきて欲しい・・・。
【仏願の生起本末】私への救いを聞かせていただく
先生によって教えの味わい方が様々ですので、違うお話をしているように感じるかも知れません。
しかし、すべての法話が「仏願の生起本末」という言葉に集約されます。
僕は「法話の時は仏願の生起本末をお話しなさい」って先生に教えていただきました。
その言葉を聞くたびに「はっ??仏願の生起本末ってまた難しそうな言葉やなぁ」と正直思ってました。
しかし、浄土真宗の勉強を進めていくうちに、阿弥陀如来のお救いを語ることと仏願の生起本末を語ることは同じだと気づくことができました。
仏願の生起本末を一言でまとめますと、「救われ難い私を救うために阿弥陀如来は私を救う願いを起こし果たし遂げられた。その結果、南無阿弥陀仏と響く仏様になり、私におはたらきくださっている」ということです。
阿弥陀如来が願いを起こした理由
↓
救われ難い私がいるから
阿弥陀如来の願いの本(因)と末(果)
↓
阿弥陀如来は修行時代にあらゆる命を救いとる願いを起こされた。その結果、南無阿弥陀仏と響く仏様になり、私におはたらきくださっている
この説明から、阿弥陀如来が願いを起こされた理由と、阿弥陀如来が現に私におはたらきくださっていることが「仏願の生起本末」という言葉に集約されていることがわかります。
故に仏願の生起本末を聞くことと阿弥陀如来のお救いを聞くことは同じだと言えるでしょう。
【浄土真宗の信心の内容】仏願の生起本末を聞くこと
親鸞聖人は、仏願の生起本末と信心の関係について次のようにお示しになられました。
しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
「きく」というは、信心をあらわすみのりなり。
浄土真宗の信心とは仏願の生起本末を疑いなく聞いている状態のことであると示されております。
ここで、「聞く」という漢字であり「聴く」ではないことに注意しなければなりません。
「聴く」という漢字には「能動的に聴きに行く」という意味があります。ですので、聴診器や補聴器という言葉で使用されております。そして「聞く」という漢字は「受動的に聞こえてくる」という意味があります。聴きに行くのではなく、聞こえている状態です。
つまり、「そのままのあなたを放っておかない」という阿弥陀如来のお救いが聞こえている状態が信心であり、私が必死に聴いて作り上げるものではありません。
阿弥陀如来が先手のお救いを親鸞聖人はお示しなんですね。
だからこそ、浄土真宗の法話を聞かせていただく時にも、阿弥陀如来のお救いをそのままお聞かせいただけるよろこびを噛みしめたいものです。
浄土真宗の信心で肝要な「仏願の生起」「仏願の本末」に関するお示し
親鸞聖人は信心について説かれた箇所で「仏願の生起」「仏願の本末」についてわかりやすく示されているので引用してみます。
仏願の生起
仏願の生起
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
仏願の本末
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無礙不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。
仏願の生起
しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
仏願の本末
なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無礙広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。
ここでは「至心・信楽・欲生」という三か所のお示しを引用させていただきました。
すべてに共通しているのは、「仏願の生起」とは、救われ難い私のすがたであり、「仏願の本末」とは見捨てない阿弥陀如来のお救いです。
どんな私であっても放っておかないという阿弥陀如来のお心のもとで、ただ阿弥陀如来のお救いを聞かせていただける生涯を歩ませていただきましょう。