
お釈迦さまによって2500年前に説かれた今の時代に通じる言葉
浄土真宗とは、『仏説無量寿経』という経典のみ教えです。
そこには、阿弥陀如来のお救いが説かれております。
そして、阿弥陀如来が放っておけなかった私のすがたが説かれております。
その内容は、2500年前に説かれたと思えないほど今を生きる私たちが共感できる内容ばかりでありました。
その二つの悪とは、世間の人民、父子・兄弟・室家・夫婦、すべて義理なくして法度に順はず。奢婬・驕縦にしておのおの意を快くせんと欲へり。心に任せてみづからほしいままにたがひにあひ欺惑す。心口おのおの異にして、言念実なし。佞諂不忠にして、巧言諛媚なり。賢を嫉み善を謗りて、怨枉に陥し入る。
(中略)
ある時は室家・知識・郷党・市里・愚民・野人、うたたともに事に従ひてたがひにあひ利害し、忿りて怨結をなす。富有なれども慳惜してあへて施与せず。宝を愛して貪ること重く、心労し身苦しむ。かくのごとくして、竟りに至りて恃怙するところなし。独り来り独り去り、ひとりも随ふものなけん。
(中略)
世間の人民、心愚かにして智少なし。善を見ては憎み謗りて、慕ひ及ばんことを思はず、ただ悪をなさんと欲ひて、みだりに非法をなす。つねに盗心を懐きて他の利を望す。消散し糜尽してしかもまた求索す。邪心にして正しからざれば、人の色ることあらんことを懼る。あらかじめ思ひ計らずして、事至りていまし悔ゆ。
第二の悪とは次のようであります。
世間の人々は、親子も兄弟も夫婦など一家のものも義理がなく規則にしたがわず、贅沢を好み、みだらで、人を見下し、勝手気ままで、各自が快楽を求め、思いのままに互いを欺き惑わしあっています。
言葉と思いが別々で、そのどちらも誠実でなく、へつらい上手でまごころに欠け、言葉巧みにお世辞をいい、賢いものをねたみ、善人を悪くいい、他人をけなしおとしいれるのであります。
(中略)
あるときは、親族や知人、町や村のもの、また素性の知れないものたちが、ともに悪事にたずさわり、互いに利害を争って腹を立て、 恨みをいだくこともあります。また裕福でありながらも物惜しみして人に施し与えようとせず、財産に執着するばかりで身も心もすりへらしてしまいます。こうしていよいよ命が終るときには何もあてにできるものがなく、結局、独り生れ来て独り世を去るのであって、ただ独りなのであります。
(中略)
世間の人々は愚かで智慧も浅く、善い行いを見ればそれを悪くいい、その行いを見習おうと思わず、ただ悪事を好んで、道義に背いたことばかりをするのであります。他人が得をしていると、それを見ていつもうらやみ、盗んで手に入れようと思い、盗めばすぐに使いはたして、また手に入れようとします。心がよこしまで正しくないから、いつも他人の顔色をうかがい恐れ、先のことなど考えもせず、事が起きてようやく後悔するというありさまであります。
「義理のない世の中」ってどのような世の中でしょう?
時代によって常識も変わるから難しく感じる「義理」という言葉
みなさまは、「義理がある」「義理がない」といった言葉を聞いたことはありますか?
私は何度も聞いたことがあるのですが、聞く度になんとなくわかった気分になってました。
でも、「義理」について説明しなさいと言われれば、「う〜ん・・・」って迷ってしまいます。
「義理」という言葉を辞典で調べてみると、次のように書かれておりました。
1 物事の正しい筋道。また、人として守るべき正しい道。道理。すじ。「義理を通す」「義理にはずれた行為」
2 社会生活を営む上で、立場上、また道義として、他人に対して務めたり報いたりしなければならないこと。道義。「義理が悪い」「君に礼を言われる義理はない」「義理をわきまえる」
3 つきあい上しかたなしにする行為。「義理で参加する」
4 血族でない者が結ぶ血族と同じ関係。血のつながらない親族関係。「義理の母」
5 わけ。意味。
これだけ多様な意味があれば、説明もできないわけです。
「義理」といえばバレンタインデーの「義理チョコ」ばかり思い浮かんでしまいます。
「義理チョコ」は上の3番にあたるでしょう。
そして、「義理がある」「義理がない」というのは、上の1番にあたると思われます。
つまり、世間で言われている「義理がない」というのは、「人として、筋を通した正しい生き方ができていない」ということになります。
ちなみに、人の考える「正しい生き方」は、常識が変わっていくように、時代によって変わっていきます。
人の考えは、一つの出来事や一つの言葉でコロコロ変わっていきますので、これほど当てにならないものはありません
しかし、仏様のお説教だけは決して変わることはありません。
ですので、『仏説無量寿経』のお言葉を中心に、「義理のない世の中」と「義理を大切にした生き方」について考えることが大切なのではないでしょうか?
自分の利益だけを大切にするのは悲しい生き方です
前のページにおいて、『仏説無量寿経』では次のように説かれておりました。
世の中全員とは限らないですが、誰もが裕福な生活を追い求めております。
時には自分の欲望のために人様を見下してしまったり、人様を欺いてしまうこともあります。
よくよく考えてみますと、その連続で世の中は成り立っているんですよね。
あらゆる業種に共通して、すべての企業が生き残ることは決してありませんよね。
新しい会社が設立されれば、倒産する会社も出てきます。
日々をせっせと送っている間にも、利権の奪い合いはいたるところで起こっております。
誰もがいきていくのに必死ですから当たり前のことです。
「相手を欺くことがダメ」とは決して言い切れません。
他人や他社と協力することはありましても、「自分の利益」を第一優先にしなければなりません。
しかし、日常生活での友人との関わりの中で、そのような言動や思いがあるのならば悲しいことです。
自分の欲望のために相手を利用し、相手を欺く。
『仏説無量寿経』に、
と説かれておりますように、自分の欲望のためには言うことと思うことが正反対であっても何も思わない。
自分の敵わない賢い方をねたみ、善い行いばかりしている方の悪口を言い、他人を蹴飛ばして生きていく。
私自身、今までの人生でそういうことは何度もしてしまいました。
されたこともたくさんありますが、「してしまった」時は得るものより失いものが多いです。
本当に悲しいことだと思います。
浄土真宗は「他人とともに」という正しい生き方を教えてくれる
自分の欲望を満たすために何でもしてしまうのが私であると、『仏説無量寿経』の言葉から知らされます。
人と人の比較から出てきた言葉ではありません。
仏様のお説教ですから、誰一人文句を言えない真実であります。
結局は自分中心なんだと知らされます。
でも、一つ不思議なことがあります。
浄土真宗というみ教えを聞かせていただいている時、自分の欲望を大切にする心から離れたような気分になります。
それよりも、「周囲の人と一緒に笑いながらお念仏もうしたい」という心が湧いてきます。
「平等に届いている阿弥陀如来のお救いを一緒によろこびたい」という心が湧いてきます。
そんな時、安らかな気持ちになれるんですね。
「他人とともに」という心が、本当の生き方なんだなぁとつくづく思い知らされるところであります。